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社会教育委員発! 我がまちのいいとこ10選(令和元年までのピックアップ)

ページID:921005043

更新日:2021年12月28日

 このページでは、社会教育委員自らが、自分の地域の良いところを委員メンバーに紹介する「社会教育委員発! 我がまちのいいとこ10選」で、実際に訪れた場所の中から主だったものを紹介するページです。

艶三郎の井

推薦者:兼子文徳(平成25年当時)

 艶三郎の井は、今もこんこんと清水が湧き出る横井戸の分水口。
 この井戸は、御子柴艶三郎が私財をなげうって掘削したもの。

 水利権をめぐる争いから、伊那村荒井(現・伊那市荒井)への農業用水の必要性を痛感した艶三郎は、湧水を集め用水にする計画をたて、掘削法の研究などを行っていた。いよいよ掘削を始める際、「どうかわしの命と取り替えに水をお与えください」と春日神社に祈願し、命と引き換えに井戸を掘る決意を固める。
 工事は、横井戸5か所とこれらをつなぐ水路の掘削からなり、水路は300間(約540メートル)にもおよんだ。人工と資材の確保に私財をことごとく使い果たした艶三郎は、各方面から負債をも仰いで、ようやく計画通りの横井戸を掘削した。
 その湧き出る水量は予想以上に豊富で、40ヘクタールの開田につながったという。

 工事完成後の明治33年、艶三郎は「おれの命は約束通り神様にさしあげる。俺は水神になるのだ。」と言って、遺書数通と辞世の句を書き残して自害、享年48歳であった。

 辞世の句 海に入る初めは穴の春の水

 艶三郎の井から西側に100メートルほど行った水源近くには、水神宮・艶三郎の頌徳碑があり、祀られている。

常輪寺

推薦者:唐木孝雄

 現在の場所に移る前の常輪寺を建設した犬房丸、常輪寺にはその墓と伝えられる石塔があるほか、使用した膳・椀・皿が保管されています。
犬房丸は、日本三大仇討ちの一つ、曽我兄弟によって討たれた工藤祐経の子どもです。
 犬房丸は、父を打たれた悲しみのあまり頼朝の御前で曾我五郎時致の顔を扇子で打った行いをとがめられ、伊那へ流されました。
 成長した犬房丸は工藤祐時と名乗り、田畑を拓いたり、仏門に帰依して常輪寺を建てたりしました。これらの行いが評価され、幕府の執権北条泰時から流罪をゆるされ、従五位下大和守に任じられました。
 天竜川に架かる「検見橋(毛見橋)」は、犬房丸がこの辺りで米の出来を検分したことに由来します。

 常輪寺の近くに五郎姫宮という小さな社があり、五郎時致の恋人を祀ったと伝えられています。往時は女性の信仰を集めて、製紙工場にと勤める女性や花柳界の女性が大勢お参りに来たそうです。

  • 蕪島神社(青森県八戸市)の犬房丸伝説

 犬房丸は曾我兄弟の仇討ちの時、もしくはその後の罪をとがめられ、奥州(青森)に流されます。その7年後に罪を許され鎌倉へ戻りますが、その間に生まれた子供は幼かったので、置いていきました。その子孫が現在も続いています。

  • 日向国(宮崎県)の犬房丸伝説

 父が曾我兄弟に討たれた後、犬房丸は元服の烏帽子親を将軍頼朝にお願いし、名を祐時と改め、父の所領を与えられました。のちに姓を伊東に改めます。働きが認められて父と同じ日向の地頭職に就き、新たな領地も与えられます。
 犬房丸は日向の地頭職に就いてからも鎌倉に残って頼朝のお側近くに仕え、日向には代わりに一族の者が赴いて伊東一族の繁栄の基を築きました。

高遠町民俗資料館

推薦者:鈴木岬

 高遠町民俗資料館は、旧馬島家住宅(県宝)、高遠なつかし館、旧池上家(市指定文化財)の施設のことです。

  • 高遠なつかし館

 「観て・さわって・やってみる」体験的資料館で、棒ばかり・いろりのほか、さまざまな農具・民具・オルガン等の大正期の生活を感じさせる展示がある。機織りを体験することもできる。

  • 旧馬島家住宅

 馬島家は高遠藩n眼科医を務めた馬島家の住宅。建造は天保7年・1836年ごろで、ほとんど改築されずに現在まで残っている。また藩医の住宅が残る例は県内唯一だという。田の字に仕切られた畳や広い土間・土蔵・診療部屋(調薬室)も見ることができる。

  • 旧池上家

 高遠駅近くにある商家がそのまま残っている。町家づくりの家屋としては町内で最も古く、古文書も所蔵されておりすぐれた文化財である。

遠照寺

推薦者:北原公雄

遠照寺にある七面堂は1506年建立で、伊那市指定の文化財となっている。特に天井に描かれた「天上絵」は1811年ごろの制作とみられ、格子状に198枚描かれており、だまし絵(トリックアート)と呼ばれる珍しい絵があり文化的価値が高い。

熱田神社

推薦者:伊藤智良(平成25年当時)

熱田神社は今から約250年前の宝暦9年から宝暦13年までの5年間で建築されました。規模は小さいものの日光の流れをくむ特殊な建築手法と名工による木彫とで出来上がっており「伊那日光」とも呼ばれます。

正面向拝の虹梁の上に横たわる大きな龍、縁の下の鬼斗や肘木を用いた組み物、隅柱には「幸福を呼ぶ」宝珠を抱えた龍、両袖障子の福禄寿と寿老人は彫刻師の棟梁が彫ったといわれひときわ目立つ透かし彫りがあります。
軸部材と彫刻には朱塗極彩色をほどこしてあり、目を見張るものがあります。

日本武尊を崇拝した溝口集落の人々150戸が浄財のみでこのお宮を造ろうとした気概・信仰の深さを感じてほしい。

フリーキッズビレッジ・うずまきファミリー

推薦者:北原公雄

フリーキッズビレッジでは、不登校の心配がある児童等を対象に、地域に根差した諸活動を展開し、子供たちが生きる力を養えるよう取り組んでいます。

うずまきファミリーでは、家庭内暴力や虐待の心配がある児童等を対象に、地域との連携を大切にしながら子供らを育む事業を実施

子供たちに自力で生き抜く力をつけてもらうため、自然を体感したり農業に取り組んだりすると同時に、地域の方々からの協力を得て、自然の中で生きる知恵の継承にも取り組み、子供たちの健全育成に力を尽くしている点が素晴らしい。

本学山 弘妙寺

推薦者:北原公雄

元久2年(1205年)真言宗の寺「中道山・旭泉寺」として開山、永享2年(1430年)に日蓮宗に改宗、文安元年(1444年)現在の場所に移動し「本学山 弘妙寺」と改称した。
天正10年(1582年)、高遠城を攻めようとする織田軍に炊き出しを求められるが、時の住職は忠義を尽くすため頑として拒否、織田軍に火を放たれて焼失したという逸話や、寺の建設資材に日本唯一とも言われる天然のカラマツ材を使用している点は特筆すべき点。
ゴルフ寺・気寺としても有名で、山間地のひなびたところにあるが、寺の歴史・絵画・仏像などみどころがたくさんある。

五郎山の仁科五郎盛信公の石像・祠・石碑

推薦者:北原公雄

長野県の県歌に歌われる仁科五郎盛信(信盛)公は武田信玄の五男で高遠城主であったが、天正10年(1582年)に5万人もの織田軍に攻められ壮絶な死を遂げたという。伊那市高遠町勝間の白山地籍に葬られたことから「五郎山」と呼ばれている。
盛信公の石像・祠・記念碑のほか東屋があり東駒ヶ岳・西駒ケ岳・高遠地域の大半を一望でき、その美しい景色と共に歴史・文化を学ぶことができる。

お問い合わせ

伊那市役所 教育委員会 生涯学習課

電話:0265-78-4111(内線2721)

ファクス:0265-72-4142

メールアドレス:sgs@inacity.jp

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