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Vol.3 第4回歴博カフェ「阪本天山 その学と人」(1)

ページID:782805308

更新日:2021年11月17日

 皆さん、こんにちは。歴博びより担当、学芸員の 北島きたじま智也ともやです。今回の歴博びよりでは、6月18日(金曜日)に行われた第4回歴博カフェの内容を紹介します。今回の歴博カフェは伊那市 西町にしまちのレストランココンダを会場に、講師に高遠郷土研究会の北原きたはら紀孝のりたか会長をお招きして「 阪本さかもと天山てんざん その学と人」というテーマで講演していただきました。

 
 延享えんきょう2(1745)年、阪本天山は高遠に生まれました。阪本家は高遠はんを治める内藤家に仕え、父英臣ひでおみは藩の指南役しなんやくとして藩士はんしやり砲術ほうじゅつを教えていました。天山も、幼い頃より砲術などを父に学んでいました。

 明和めいわ4(1767)年、天山は23歳で家督かとく相続そうぞくし、翌年には大阪の荻野流おぎのりゅう宗家そうけへ砲術修行しゅぎょうに向かいます。明和7年には藩主はんしゅ内藤ないとう頼由よりゆきの参勤交代に同行し、向かった江戸で荻生おぎゅう徂徠そらい高弟こうてい(特に優れた弟子でし)である大内おおうち熊耳ゆうじ儒学じゅがくを学びました。
 自然災害が多発し人々の生活が困窮こんきゅうすると、従来じゅうらい朱子学しゅしがくによる政治統治とうちでは人々の幸福こうふくられないと変革へんかくを求める動きが起こりました。大内のである荻生徂徠は古文辞こぶんじ学派がくはおこし、天山は生活にもとづいた徂徠の実学じつがくの考えにかれ、熱心に勉強したのです。20代半ばからの天山は大阪や江戸に向かい、進んだ砲術や儒学の知識に触れていました。

 安永あんえい3(1773)年、30歳になった天山は御武具おぶぐ奉行ぶぎょうつとめ、砲術研究に取り組んでいました。研究は砲架ほうか周発台しゅうはつだい」の完成として実を結び、安永7年には六道原ろくどうはら(現伊那市美篶みすず)で試射ししゃが行われました。試射の記録や周発台の製作法は『周発しゅうはつ図説ずせつ』として残されました。

 天明てんめい2(1782)年、全国的な大飢饉だいききん(天明の大飢饉)が起こり、高遠藩では約2万6千ごく減収げんしゅうとなりました。ちょうチフスなどの疫病えきびょうも流行し、夏に雪が降ったといわれています。この飢饉の中、天山は39歳の若さで郡代ぐんだい(藩の実務上の責任者)に抜擢ばってきされました。天山は飢饉で落ち込んだ藩財政の立て直しを考え、川下郷かわくだりごう野底村のそこむら(現伊那市野底)で堤防ていぼう造りを指導しました。堤防によって水害は無くなり、安定して米を収穫しゅうかくできるようになりました。郡代として尽力じんりょくする天山の才能と人柄ひとがらしたう藩士・農民が増える一方、自己保身や嫉妬しっとのために天山のことをこころよく思わない者もいました。
 天山は領地を見回る中で西駒ケ岳にしこまがたけに登り、山頂に着いた時の心境しんきょうんだ下記かきの詩を前岳まえだけ屏風岩びょうぶいわきざんでいます。この岩は勒銘石ろくめいせきと呼ばれ、現在も残っています。
 
 

 霊神れいしん駿しゅんを育て、高く天門てんもんせまり、長く封域ほういきしずむ。このがく もって尊し
(天地の霊気れいきが高い山々に満ちて、霊峰れいほうは天高くそびえ、永久に郷土の重しとなっている。なんと尊いことではないか。)
 
 
 これからの天山がどうなるのか気になりますが、今回の歴博びよりはこのあたりで。
 また次回の歴博びよりでお会いしましょう。
 

 令和3年10月 北島智也

お問い合わせ

伊那市役所 教育委員会 生涯学習課 高遠町歴史博物館

電話:0265-94-4444

ファクス:0265-94-4460

メールアドレス:t-rhk@inacity.jp

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