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長衛小屋をめぐる歴史

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更新日:2019年1月22日

 伊那市長 白鳥 孝

今年は竹澤長衛(たけざわちょうえ)(1889年~1958年)を偲ぶ集い、「長衛祭」が記念すべき60回を迎え、6月30日(土曜)と7月1日(日曜)の両日に一般登山者、長谷小学校の子どもたち、お隣の山梨県南アルプス市、親族、山岳関係者などが多数参加して盛大に開催されました。北沢の長衛小屋横にある竹澤長衛翁レリーフ前の碑前祭、参加者による献花、交流会が行われ、翌7月1日には、記念登山として仙丈ヶ岳と栗沢山に合わせて200名ほどの皆さんが登りました。そのほか、岩海の広がる仙水峠トレッキング、山岳写真家の津野祐次先生写真教室、近年人気の高い南アルプスのコケ観察会に多くの皆さんが参加されました。さらに長衛の子、竹澤重幸(たけざわしげゆき)が経営していた大平山荘において、若かりし頃に長衛と一緒にクマ狩りに同行した矢澤章一さん(故人)や、子の竹澤民夫さん、星野五六(ほしのごろう)さん、長衛と登山をしたり長衛小屋に泊まったりしていた中山晶計(なかやましょうけい)さん、建石繁明さんなどが集い長衛を語る会が行われ、炉辺夜話的な興味深い話を聞くことができました。
 今日では北沢の「長衛小屋」、「長衛翁のレリーフ」、峠の「こもれび山荘」、長衛が最後に建てた「藪沢小屋」と、竹澤長衛にかかわる数々の小屋の歴史は、登山者やトレッキング愛好者にとっては、ごく普通のこととして存在していますが、実は小屋名など紆余曲折な変遷、レリーフの移転問題、山梨県南アルプス市や議会とのやり取り、「熊長(くまちょう)」と呼ばれた長衛愛用の村田銃のことなど、世間に知られていない歴史や経過があります。第60回長衛祭にあたり、これらに多少なりとも関わりを持った一人として、経過や事実を伝えなければならないと思いまとめてみました。
 平成18年(2006年)、旧伊那市と旧高遠町、旧長谷村が合併をする頃のことです。ちょうど私が小坂樫男前市長に呼ばれ、伊那市役所に収入役で入って2年目の、平成18年度の伊那市予算書を見ていた時に始まります。当時は平成大合併最後の、伊那市・高遠町・長谷村の3市町村合併協議の最中で、予算も平成18年度の本予算成立までの暫定的な予算書でした。パラパラと予算書に目を通していると、観光施設管理費の工事請負費のなかに「竹澤長衛翁レリーフ移転工事費」483,000円とありました。担当に聞けば「長衛小屋を2代目長衛が山梨県芦安村(あしやすむら)に売ってしまい、小屋の所有者も地元長谷ではなくなった。小屋の名称も「長衛小屋」から「駒仙小屋」に変わり、長衛とは所縁がなくなってしまったから、長衛翁のレリーフを北沢峠の「長衛荘」付近に移転するための予算である」との説明です。
 私は登山を長く趣味としてきました。地元の社会人山岳会・伊那山仲間に所属し、日本山岳会にも席を置き、信州と甲州の日本山岳会関係者でつくる「甲信山友会」にも入っています。このレリーフ移転問題が発生したとき、まっさきに甲信山友会メンバーの山梨県「芦安山岳館」の塩沢久仙(しおざわひさのり)館長(故人)に連絡をとりました。塩沢さんもやはり、レリーフの移転はすべきではないとの考えで、竹澤長衛と言う南アルプスの開拓者、山案内人としての存在を考えると軽々に動かすべきではないと言います。そして私からは、駒仙小屋の名前はもとをただせば長衛小屋であり、できれば元の名前に戻してほしいとの申し入れもしました。塩沢さんとは、これらのことは伊那市、南アルプス市の行政や議会の承認のいる話でもあり、私たちで解決できるものでもない。しかしレリーフの移転を止めさせることと、駒仙小屋の名前を長衛小屋に戻すための努力は二人で続けていきましょうと約束したのです。
 ところでここまで、「長衛小屋」、「長衛荘」、「こもれび山荘」、「大平山荘」と、いくつかの小屋名が登場し、それぞれの小屋の位置関係など、なかなか理解しにくいと思いますので、以下に小屋の歴史から所有、名称の変更などを時系列に整理してみます。

北沢長衛小屋

・南アルプスの父とも称される竹澤長衛が、山梨県側の北沢の河原に昭和5年(1930年)に建設した小屋

・長衛没後、藪沢と赤河原の合流点付近にあった、竹澤長衛翁を顕彰したレリーフ(瀬戸団治作)を北沢の長衛小屋横の大岩に昭和37年(1962年)移設する

・昭和38年(1963年)から長衛祭の会場となる

・平成8年(1996年)二代目竹澤長衛(昭一)は、旧芦安村に長衛小屋を売る

注記:「長衛小屋を地元長谷村にではなく、芦安村に売った理由はわからない。ただ、当時私は長衛ゆかりの小屋だから、長谷村に譲渡すべきと説得したが、長谷村には何があっても売らない。それに長衛小屋の名前も使ってもらっては困る。小屋の名前も変えてほしいと二代目長衛(昭一)から言われた」(塩沢久仙氏談)

・平成18年(2006年)「長衛小屋」は、南アルプス市議会の議決を経て、「北沢駒仙小屋」に改称される(駒仙とは、東駒ヶ岳と仙丈ヶ岳の頭文字を組み合わせた名前)

・平成24年(2012年)老朽化に伴い、駒仙小屋が建て替えられる

注記:平成23年(2011年)、小屋解体の際に床下から、長衛の使用していたものと思われる銃身の短い村田銃と短刀が出てきたが、山梨県南アルプス警察署に押収される

・南アルプス市の北沢駒仙小屋全面改築が完了し、平成25年(2013年)営業を前に、私より中込博文南アルプス市長に、「北沢駒仙小屋」の名称を以前の「長衛小屋」に戻していただきたい旨の依頼をする

注記:小屋が新築され、駒仙小屋の名称が定着すると、竹澤長衛が80年も前に建てた歴史的小屋がなくなるだけではなく、自然保護、安全登山、女性登山など先駆けて取り組んだ南アルプスの父とも言える長衛を偲ぶものは、レリーフのみとなってしまう。ゆえに小屋の名称を「長衛小屋」に戻してほしいとの思いから、正式に南アルプス市に依頼をする(白鳥より中込南アルプス市長に文章を送る)

・南アルプス市議会では、平成18年(2006年)に、信州長谷の2代目竹澤長衛から要求されて名称変更の議決をしたのに、再び元に戻す名称変更の議案を議会にかけるとは如何なものか?との議論があったのは当然のことで、結果として南アルプス市では、伊那市からの要求を快く受け入れてくれた
注記:こうして名称はもとの長衛小屋となったが、南アルプス市長や南アルプス市議会に、熱心にその理由と歴史的な経過を説得してくれたのは、私と「いつの日か長衛小屋の名前に戻そうと」約束した塩沢さんのお蔭と考える

・ところが、南アルプス市から思いもかけない要求が寄せられた。それは、北沢峠には昭和37年(1962年)に2代目竹澤長衛の建てた「長衛荘」がある。長衛小屋と長衛荘は紛らわしいので長衛荘の名称を変更してもらえないかと言うものだ

・平成25年(2013年)1月、長谷地域協議会から名称変更に関する意見を求め、賛成・反対・どちらとも言えないとの意見が拮抗し、さらに山岳関係者や長衛翁の親族からも意見を聴取したところ、名称変更に賛成:22名、名称変更に反対:8名、どちらとも言えない:4名となり、南アルプス市からの申し入れを受けることになった。「北沢駒仙小屋」は「長衛小屋」に、峠の「長衛荘」は全国から小屋名を募集して「こもれび山荘」にとそれぞれ落ち着いたのである

長衛荘

・北沢峠にある「長衛荘」は、2代目長衛(竹澤昭一)によって昭和37年(1962年)に建設された。その後昭和54年(1979年)に旧長谷村に譲渡され、翌年の10月に全面改築された
注記:昭和55年(1980年)11月に、開発か自然保護かの全国的な議論を経て、南アルプス林道が全線開通する
・平成18年(2006年)の伊那市・高遠町・長谷村の合併まで、長衛荘は旧長谷村の長谷開発公社の経営が続き、合併後は伊那市観光株式会社の指定管理となっている
・「長衛荘」から「こもれび山荘」への経緯は前述の「長衛小屋」のところで触れている
注記:こもれび山荘の電気は、北沢峠の公衆トイレとともに、藪沢にある小水力発電(9.9kwh)によって賄われているが、平成29年3月の大規模な全層雪崩によってコメツガ・シラビソ・ダケカンバなどの流木で破壊された。平成30年7月現在、小屋の電気は自家発電による(流木除去の後、小水力発電は再開の予定)

大平山荘

・昭和37年(1962年)、竹澤長衛の子、竹澤重幸が北沢峠から伊那側に10分ほど下ったところに「大平小屋」として建設する
・昭和57年(1982年)小屋名を「大平山荘」に改名する。現在は重幸の子、竹澤信幸氏が経営をしている
・小屋の作りは昔ながらの間取りで、真ん中に土間が通り、その両側に板張りの休憩兼宿泊スペースがある。根強いファンの多い小屋として知られる
・竹澤重幸は、小屋脇から藪沢に沿って登る「藪沢新道(重幸新道)」を開設し、仙丈ヶ岳へのルートとしては最短で、水の得られる登山道
注記:小屋の名物ばあさんは登山者の人気者だった。シーズン中の小屋には、おばあさんの愛子さんがいて、微にいり細にいり暖かく登山者の世話をしてくれた。伊那市美すずの自宅でとれたトマトやキュウリ、ナスなどの野菜を、登山者に振舞っていた。私も何度か持たされたが、山で食べる新鮮な野菜は格別なものがあった。ただし、リュックザックには食料・酒・燃料など計算して無駄なくパッキングしたのに、大平小屋ではおばあさんから渡される山ほどの野菜を断れずにザックの上に括り付けて登ったものだ

長衛の鉄砲

・老朽化した長衛小屋を建て替える時に、床下から油紙に包まれた銃と短刀が出てきた。平成23年(2011年)11月、小屋の関係者はすぐに山梨県南アルプス警察署に届け出て押収された。南アルプス市には私と同じ山岳会に所属する塩沢久仙氏(2017年7月栗沢山で亡くなる)がいて、「出てきたのは銃身の短い村田銃で、竹澤長衛のものに間違いない。山梨県警から検察庁に行く前にすぐに動いた方がいい」との連絡があった。さっそく山梨県警に行ったものの「十分に殺傷能力のある銃であり、返すわけにはいかない」と取り付く島もない
・山梨県所縁の国会議員・山梨県議会議長経験者・山梨県副知事などあらゆるチャンネルと手づるを駆使して交渉するものの手詰まり状態となる
・竹澤長衛は熊(ツキノワグマ)撃ちの名手で、巷間「熊長さ」と呼ばれていた。70年も前に長衛と一緒に雪の南アルプスの狩猟に同行した高遠町在住の矢澤章一氏にも、銃の特徴(藪のなかでも持ちやすいように銃身を短く切ってある)を証人として話してもらい、法務大臣・検察庁などに提出する
・なかば諦めていた平成29年(2017年)12月、甲府検察庁から「法務大臣から許可がおりたのですぐに貰い受けにくるように」と、6年間の努力と願いが叶った瞬間であった

 竹澤長衛という傑出した案内人は、南アルプスの父とも主とも言われました。「女でも登れる南アルプス」にしよう、そして「山をでーじに」と自然保護を訴え、「雨が降ったらまた来るさ」と安全登山を唱え続けました。安全登山のための藪沢新道(トラバースルート)、栗沢山新道、仙丈巻道新道、双子山ルートなどを開削したのも長衛でした。
 長衛が愛して、死ぬまで過ごした南アルプスは、昭和39年(1964年)南アルプス国立公園に指定され、その後平成20年(2008年)日本ジオパークに認定され、さら平成26年(2014年)にユネスコエコパークにも認定され、まさに長衛の思い描いたとおりの山域となってきました。

 「清流」 まほら伊那市民大学 平成29年度修了記念文集 掲載

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