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高遠城跡の魅力をご紹介

更新日:2018年3月26日

国指定史跡であり日本百名城の1つでもある高遠城は、戦国大名武田氏の城としても名高い城ですが、現在は桜の名所の公園となっており、現地を訪れても「ここが本当にお城なの?」という感想を抱く方も少なくありません。ところが、注意深く歩いてみると、公園内のあちこちにお城の名残なごりがみられます。
高遠城をもっと楽しむための情報をご紹介します。

高遠城の上空を鶴が舞う様子が描かれた江戸時代の絵巻物
高遠城本丸上空を鶴が舞う様子 『高藩探勝』絵巻より「郭上鶴」 (江戸時代中期作成)

高遠城の立地と構造

高遠城は、天竜川てんりゅうがわ水系すいけい最大の支流である三峰川みぶがわ藤澤川ふじさわがわという2つの河川の合流点に形づくられた河岸段丘かがんだんきゅうの上にあります。本丸の標高は約800mで、西側の城下から見ると小高い山のようになっていますが、上部は平地になっており、一般的に平山城ひらやまじろと呼ばれる形の城です。三峰川に面する南側は切り立ったがけになっており、三峰川から本丸までの高低差は約80mもあり、地形のけわしさをたくみに利用した城です。
ここは諏訪盆地と伊那谷を結ぶ杖突街道つえつきかいどうに面する交通の要衝ようしょうであり、伊那市街地まで一望できる高台にあることから、軍事上重要な場所に造られた城であることがわかります。

高遠城の歴史

高遠城の築城時期は?

高遠は古くから諏訪すわ氏の勢力圏にあり、14世紀頃(南北朝の時代)に諏訪氏から分かれた高遠氏が一円いちえんを治めていました。高遠城の築城年代は不明ですが、当初は高遠氏が拠点きょてんにしていた城だと考えられています。

武田氏と高遠城

戦国時代になると、信濃へ侵攻してきた甲斐かい武田信玄たけだしんげんが、伊那谷攻略の足がかりとして高遠を押さえ、高遠氏から城も奪い取りました。天文てんぶん16年(1547)に信玄は高遠城の改修を行い、城主には秋山虎繁あきやまとらしげや信玄四男の諏訪勝頼すわかつよりが就きましたが、勝頼が武田家の後継者こうけいしゃとして甲府に呼び戻された後は、信玄弟の信廉のぶかどや信玄五男の仁科盛信にしなもりのぶ(信盛)が城主となっています。信玄の近親者ばかりが高遠城主になったのは、ここが南信濃支配の拠点であり、遠江とおとうみ、信濃、甲斐をつなぐ交通の要所として重要視されたからだと考えられます。

高遠城の戦い(武田軍VS織田軍)

武田氏による高遠支配は35年ほど続きましたが、織田信長が勢力を拡大する中で、高遠城は武田対織田の壮絶そうぜつな戦いの場となりました。
天正てんしょう10年(1582)3月、高遠城主であった仁科盛信は敵方の総大将であった信長の嫡男ちゃくなん、信忠からの降参こうさんの要請に応じず城にこもり、数千の兵で数万の軍勢を相手に一戦をまじえました。織田勢の大軍にひるむことなく戦った盛信でしたが、城はわずか一日と持たず、多くの家臣はち死にし、盛信も自害じがいし、高遠城は落城しました。

高遠城の戦国末期

高遠城落城から時をおかず、甲斐の本国にいた武田勝頼たけだかつよりも織田信忠に攻められ、戦国大名武田氏は滅亡しました。一方、武田氏を滅ぼした織田信長もわずか3ヵ月後に京都の本能寺ほんのうじで命を落とし、支配者を相次いで失った高遠を含む信濃国全体が混乱におちいりました。
混乱に乗じて高遠城に手を入れたのは、藤澤郷ふじさわごう(現在の伊那市高遠町藤沢)に本拠を置いていた武田家の旧臣、保科正直ほしなまさなおでした。正直は高遠城の戦いの際、城から脱け出して身を隠していましたが、本能寺の変の後、北条ほうじょう氏の力を借りて高遠周辺を押さえ、その後徳川家康の配下となり高遠城主となりました。
天正18年(1590)に豊臣秀吉の命を受けた家康が江戸へ移ると、保科正直も付き従い、下総しもうさ多胡たこ(現在の千葉県香取郡多古町)へ移動しています。正直が去った後の高遠城は、秀吉政権の下、毛利もうり氏、京極きょうごく氏の領地となりましたが、城主は置かれず、代官が派遣される形で統治されました。

近世城郭としての高遠城

戦国時代せんごくじだいの城としてのイメージが強い高遠城ですが、現在の城跡は江戸時代が終わるまで数百年間使われた後の状況であり、近世城郭きんせいじょうかくとしての城の姿です。戦国末期の落城で壊滅的かいめつてきな状態になった城は、江戸時代初期までに大改修が行われたと考えられ、城の大手おおて(正面入口)を東側から西側に変更したとも伝えられます。大手を西側にすることで、古くからの門前町もんぜんまちを城下町に取り込む形となり、城とともに城下町の再編成が行われたのです。

江戸時代の高遠城主

江戸時代の高遠城は、高遠藩たかとおはん石高こくだか3万3千石)の政庁となり、明治5年(1872)の廃城まで約270年間、保科ほしな氏、鳥居とりい氏、内藤ないとう氏という三家の大名が入れわりで城主にきました。
特に元禄げんろく4年(1691)から明治維新めいじいしんまで、最も治世ちせいが長かった内藤氏については、古文書や記録、絵図など多岐たきにわたる資料が地域に残されています。内藤氏の時代になると、藩主の生活拠点は江戸になり、江戸城でのお勤めを中心に日々の生活を送っていました。藩主が参勤交代さんきんこうたいで高遠へ帰ってくるのは数年に一度でしたが、政務せいむのかたわら、村々を回ったり、猪狩いのししがりに行ったり、鵜飼うかい、魚り、花火などの見物に出かけるなどしています。豊かな自然と美しい景色に囲まれた高遠城での生活は、藩主にとって息抜きともいえる時間だったと思われます。江戸へ帰る間際、夏空の雲をながめながら高遠を離れるのが名残惜なごりおしいと和歌をんだお殿様もいました。

歴代の高遠藩主
藩主名 就任年 退任年 備考
保科正光ほしなまさみつ 慶長5年(1600) 寛永8年(1631)  
保科正之ほしなまさゆき 寛永8年(1631) 寛永13年(1636)

最上もがみ(山形)へ移封  新規ウインドウで開きます。保科正之のご紹介ページ

鳥居忠春とりいただはる 寛永13年(1636) 寛文3年(1663)

最上もがみ(山形)から入封

鳥居忠則とりいただのり 寛文4年(1664) 元禄2年(1689) 自害により領地没収
内藤清枚ないとうきよかず 元禄4年(1691) 正徳4年(1714) 富田林とんだばやし(現在の大阪府)から入封
内藤頼卿ないとうよりのり 正徳4年(1714) 享保20年(1735)  
内藤頼由ないとうよりゆき 享保20年(1735)

安永5年(1776)

 
内藤頼尚ないとうよりたか 安永5年(1776) 安永5年(1776)  
内藤長好ないとうながよし 安永5年(1776)

寛政3年(1791)

 
内藤頼以ないとうよりもち 寛政3年(1791) 文政3年(1820)  
内藤頼寧ないとうよりやす 文政3年(1820) 文久2年(1862)  
内藤頼直ないとうよりなお 文久2年(1862) 明治2年(1869) 廃藩はいはん後、明治5年まで高遠県知事を務める

高遠城の遺構と江戸時代の姿

堀と土塁

城内は堀によっていくつかの区画くかくに分けられていますが、これらの区画を曲輪くるわといいます。
現在の曲輪配置は、江戸時代の状況をよく残しており、本丸を中心に二ノ丸にのまる三ノ丸さんのまるなどの曲輪が取り囲むような空間構成になっています。
曲輪の周囲には横堀よこぼりがめぐらされているほか、三峰川みぶがわに面した南側の斜面には、いく筋もの竪堀たてぼりが見られます。ほとんどは空堀からぼりですが、本丸周囲の堀底ほりぞこからは自然と水がき出ており、水堀みずぼりのようになっていた場所もあったと考えられます。
曲輪の内縁部には、防御のために土を盛った土塁どるいが築かれ、土塁の上にはへいが築かれていました。堀と土塁をセットで体感できるのが、二ノ丸の高遠閣たかとおかく裏の中堀なかぼりです。この堀は廃城後に約2~3mほど埋まっていますが、堀底から二ノ丸の方を見上げると、高低差を実感することができます。

大手(正面口)

城下から城に続く坂を上りきったところに、大手門おおてもん櫓門やぐらもん)がありました。大手門は廃城の際に取り壊され、民間へ払い下げられましたが、太平洋戦争後に城内へ戻されました。高さや間口まぐちを縮めるなど、江戸時代と比べて規模は小さくなっていますが、現在も大手の近くに建っています。
高遠城には近世城郭に一般的な高石垣たかいしがきがありません。唯一、それほど高くない石垣が大手の枡形ますがたを形成していました。江戸時代、城下からはこの石垣や、門の金具が陽の光に反射してキラキラ輝く様子が見えたといいます。
城下から人々が眺めた高遠城の姿は、丘の上にそびえる威厳いげんある城の姿でした。

本丸

城の中枢ちゅうすう、本丸には藩主の居住空間きょじゅうくうかんと藩政をり行う本丸御殿がありました。御殿は元々平屋建ひらやだてでしたが、幕末になると奥向きに2階が増築されています。
天守閣てんしゅかくはありませんでしたが、二階建てのやぐらが3棟あり、遠くを望むことができました。

二ノ丸

二ノ丸の入口には大きな櫓門がありました。
門を抜けて曲輪内に入ると、広庭ひろにわ(多目的に利用された広いスペース)があり、武術稽古ぶじゅつけいこや藩士らが一同にそろ儀式ぎしきなどが行われました。ほかにも馬屋うまや武器蔵ぶきぐらなどがありました。
現在、建物は残っていませんが、東側の端に土塁どるいのみが見られます。

南曲輪

南曲輪みなみぐるわには回遊式庭園かいゆうしきていえんや茶室がありました。中央の池には山の沢水さわみずが引かれ、滝から池へ水を落としていました。春は梅や山吹やまぶき、夏はサツキやキリシマツツジ、かきつばた、藤など、四季に応じて色とりどりの花が咲きました。
現在庭園は残っていませんが、本丸と結ぶ土橋どばしの上から左右の堀を見ると、曲輪の造成時に造られた切岸きりぎしがとてもきれいに見えます。

三ノ丸

三ノ丸には、藩主の子どもが暮らした御殿や家老かろうなどの屋敷があったほか、き屋敷を利用して藩校はんこう進徳館しんとくかん」も開かれました。
現在も残る進徳館の建物は、城内に唯一ゆいいつ残された江戸時代の建物です。
進徳館について、くわしくは新規ウインドウで開きます。「進徳館のご案内」をご覧ください。

勘助曲輪

勘助かんすけ」とは、武田信玄の家臣の山本勘助やまもとかんすけのことです。武田信玄が高遠城を改修した際、山本勘助が縄張なわばり(設計等)をしたと伝えられ、勘助曲輪かんすけぐるわの名称もそのことに由来ゆらいします。
江戸時代には稲荷社いなりしゃがあり、2月の初午はつうま例祭れいさいには城下の人々も自由に参拝さんぱいが許され、狂言芝居きょうげんしばいとみくじなども行われ、大変にぎやかだったと伝えられます。
現在の曲輪周辺は、江戸時代とは大きく変わっており、かつて勘助曲輪と三ノ丸武家屋敷の間にあった大きな堀(鍛冶堀かじぼり)は埋められ、現在は広い駐車場になっています。

笹曲輪と法幢院曲輪

笹曲輪ささぐるわは本丸の南に隣接りんせつする曲輪で、一段低い位置にあります。周囲に笹が多く生育していることから、この名前になったと言われています。
法幢院曲輪ほうどういんぐるわは、城内の南のはしにある曲輪です。戦国時代、ここには「法幢院ほうどういん」というお寺がありました。高遠城の戦いの後も戦死者をとむら法要ほうようが行われました。寺は文禄ぶんろく元年(1592)に城外へ移りましたが(現在の桂泉院けいせんいん)、その後も法幢院曲輪と呼ばれ続けました。

搦手(裏口)

搦手からめてから城外へ出ると、そこは武家屋敷地です。
搦手には櫓門やぐらもんがあり、その中に時を告げる太鼓たいこが置かれていました。開門時間になると、太鼓が鳴り出し、それを合図に門のとびらが開きます。勤めの武士がぞくぞくと登城し、門内の控所ひかえじょ登城者とじょうしゃの名前が記録されました。太鼓が鳴り終わると門の扉は閉じられ、それまでに城内に入らない者は遅刻となりますが、搦手門の櫓の上からは、藩士らの家並みがよく見え、登城を急ぐ姿もよく見えました。かしこい藩士たちは盆暮ぼんくれに、太鼓番たいこばんの家へ内緒ないしょでつけとどけをしており、いつもつけとどけをする藩士が遅れそうな姿が太鼓番の眼に入ると、太鼓番は太鼓を打つ手を長引かせ、間一髪かんいっぱつでその藩士は間に合うということがよくあったそうです。

江戸時代の搦手門周辺の様子
江戸時代の搦手門周辺  『高藩探勝』絵巻より「搦手警衛」

桜の名所、高遠城址公園のあゆみ

高遠城の廃城

明治5年(1872)、明治政府の方針により高遠城は廃城はいじょうとなりました。政府は御殿ごてんや門、土蔵どぞうなどの建物を始め、障子しょうじふすま釘隠くぎかくしといった建具たてぐ礎石そせき庭石にわいし、樹木にいたるまで、あらゆるものを民間へはらい下げ、明治6年(1873)7月までに建物は残らず取り壊されました。

城跡の公園化

政府が進めていた公園づくりの方針を受け、明治8年(1875)10月、高遠城跡の公園化が決まりました。この時公園地となった範囲は、本丸と笹曲輪ささぐるわ南曲輪みなみぐるわ勘助曲輪かんすけぐるわでした。地元の東高遠町ひがしたかとおまちでは、公園に花が咲く樹や実がなる樹などを植えたいと考え、明治9年(1876)7月に隣村の「桜ノ馬場さくらのばば」から、芝草しばくさや桜のひこばえを掘り取り、公園に植樹しました。「桜ノ馬場」とは高遠城下にあった馬場で、江戸時代には武士が馬の調練ちょうれん等を行っていた場所で、その名のとおり馬場の両脇に桜の大木が並ぶ、高遠藩内で最も有名な景勝地けいしょうちでした。新たな時代を迎え、新公園の景色づくりとして、歴史ある景勝地のサクラが求められ、桜の馬場のサクラが移植されたのですが、この時植えられた桜が、現在の桜のルーツとなっています。

明治以降の公園化に関わる見どころ

高遠公園碑(本丸跡)

明治14年(1881)に建てられた碑で、高遠城の地理や歴史、公園となるまでの沿革が漢文で記されています。
漢学者の三島毅みしまつよしが文をえらび、明治の三筆と呼ばれた書家、巌谷修いわやおさむ一六いちろく)がしたためた書が碑文化ひぶんかされました。
高遠城址公園の原点となる碑です。

タカトオコヒガンザクラと高遠のコヒガンザクラ樹林

城跡の桜は、「タカトオコヒガンザクラ」という固有種こゆうしゅで、やや小ぶりで赤みが強い花が特徴です。
現在、城跡周辺に1,500本が生育しており、約140年前の明治初期に植えられた古木が約10本、50年以上のものが約1,000本あります。
タカトオコヒガンザクラ1種類のみで、これほどの樹林を形成しているところは他にないため、「高遠のコヒガンザクラ樹林」として、昭和35年に長野県の天然記念物に指定されました。
花はもちろんのこと、龍のように曲がりくねったみきも見ごたえがあります。

問屋門(本丸跡)

現在本丸の入口にある門は、元々、城にあった門ではなく、高遠城下の本町の問屋役所とんややくしょにあった門です。昭和20年代、問屋役所の建物を取り壊す際、歴史ある門が高遠から失われることをしんだ町の有志が買い戻し、募金を集めて城跡に移築したものです。
現在では、手前の桜雲橋おううんきょうとともに、城跡には欠かすことができない景観シンボルとなっています。

太鼓櫓(本丸跡)

明治時代に建てられた櫓で、時を告げる太鼓がおかれました。
江戸時代、時の太鼓は城内の搦手門からめてもんの中にありましたが、明治に入り搦手門が取り壊されると、太鼓を置くための櫓が城の対岸の白山はくさんに建てられました。この太鼓櫓は明治10年(1877)頃に現在の位置に移され、昭和18年(1943)まで朝6時から夕方6時まで偶数時ぐうすうじに太鼓が打ち鳴らされ、時を告げました。

新城神社と藤原神社(本丸跡)

新城神社しんじょうじんじゃ」と「藤原神社ふじわらじんじゃ」の2つの神社が1つの社の中にまつられています。新城神社の祭神は仁科五郎盛信にしなごろうもりのぶで、藤原神社の祭神さいじんは高遠藩主内藤家の祖先にあたる藤原鎌足ふじわらかまたりや代々の内藤家当主です。どちらも江戸時代から城内にあった神社ですが、明治12年(1879)に現在の場所にまとめてまつられるようになりました。

高遠閣(二ノ丸跡)

昭和11年(1936)に高遠町出身の有志らの寄付で建てられました。
木造もくぞうそう2階だて入母屋造いりもやづくり、2階には200畳敷の大広間があります。昭和初期の大規模和風建築としては稀有けうな建物であるとして、国の登録有形文化財になっています。遠くからもよく見える赤い屋根の建物は、城跡のランドマークとして親しまれています。

「天下第一桜」の碑(二ノ丸跡)

天下第一桜てんかだいいちのさくら」と刻まれたこの碑は、高遠出身の眼科医、内田孝蔵うちだこうぞうが昭和9年(1997)に建てたものです。
内田孝蔵は東京丸の内に眼科医院を開き、日本で初めて二重まぶたの美容整形手術に成功した人物ですが、孝蔵が記した「天下第一桜」という言葉は、現在も高遠城址公園のさくらのキャッチコピーになっています。

無字の碑と伊澤多喜男(二ノ丸跡)

無字むじの碑は伊澤多喜男いさわたきお顕彰けんしょうするため、昭和10年(1935)に建てられた碑です。
伊澤多喜男は明治2年(1869)に高遠に生まれ、東京帝国大学法科を卒業した後、台湾総督・東京市長・貴族院議員など国家の重要な政務に携わるかたわら、郷里高遠をこよなく愛し、治山、治水に力を尽くした人物です。
郷土の人々は多喜男の業績を称えるため、碑を建てようと計画をし、碑に刻む書を多喜男に書いて欲しいと相談しました。
しかし多喜男は、「政治家の頌徳碑しょうとくひを建てるなどとんでもない間違いだ。たとえ善政を敷いたとしても、人間の功罪こうざいひつぎふたを覆って初めて表れるというではないか。まだ生きているうちに頌徳碑しょうとくひを建てるなどまかりならぬ。」といって碑の建設に強く反対しました。
人々は多喜男の志にますます感銘を受け、ついには文字を刻まぬままこの碑を建てることになりました。

河東碧梧桐の句碑(法幢院曲輪跡)

高遠出身の鉱山業者で、高遠閣建設にも関わった廣瀬省三郎ひろせしょうざぶろう(俳号奇璧きへき)と、奇璧と交流があった河東碧梧桐かわひがしへきごとうの句が巨大な岩の両面に刻まれています。
城址公園から南アルプス、中央アルプスをそれぞれ眺めて詠んだ句で、題字の「嶽色江聲がくしょくこうせい」は高遠出身の近代洋画界の奇才で、独特のスタイルをもつ書家でもあった中村不折なかむらふせつの書です。

高遠城をもっと楽しみたい方へ

高遠城跡パンフレット

書籍販売のご案内

高遠城に関する書籍や市内の歴史・文化等に関わる書籍を販売しています。

スマートフォン、タブレット用アプリ「高遠ぶらり」を利用して高遠城を歩いてみませんか。

Android(アンドロイド)端末をご利用の方は、GooglePlayから「高遠ぶらり」をダウンロードの上、ご利用いただけます。

アプリケーション「高遠ぶらり」の使い方などをご紹介します。

日本100名城のスタンプについて

高遠城は平成18年(2006)に日本城郭協会により、日本百名城に選ばれました。
100名城スタンプラリーのスタンプは、伊那市立高遠町歴史博物館に設置しています。
玄関の屋外にありますので、博物館の開館時間外でもご利用いただけます。

高遠城跡を守り伝えるために ―文化財保護法上の手続き―

高遠城跡は昭和48年(1973)に国の史跡に指定されました。
国民全体の財産として、後世に伝えていくために、史跡に指定された区域内で現状を変更する行為や文化財に影響を及ぼす行為をする場合は、文化財保護法に基づき、事前に許可申請が必要です。
申請から許可までに時間を要する場合や、内容によっては許可にならない場合もあります。
史跡内でイベントや工事を計画される場合は、事前に市教育委員会事務局生涯学習課文化財係(電話:0265-78-4111)へお問い合わせください。

史跡の現状変更許可申請が必要な範囲(国史跡指定区域)

現状変更の例

・建築物の新築、改築、増築、撤去
・住宅の外壁補修、塗り替え
・工作物(看板・フェンス等)の設置、撤去
・電柱、道路標識、ガードレール等の設置、撤去
・仮設物(テント等)の設置、撤去
・道路の新設、舗装、修繕
・埋設されている上下水道管の改修
・木竹の伐採、植栽  など

高遠城址公園のご利用案内

開園時間と入園料
 基本情報
休園日 なし(年中無休)
開園時間 さくらまつり
期間以外 
24時間入園可能
さくらまつり
期間中
咲き始めから三分咲きまで  午前8時から午後10時
三分咲きから散り始めまで  午前6時から午後10時
散り始めから散り終わりまで 午前8時から午後10時
入園料 さくらまつり
期間以外
無料
さくらまつり
期間中
伊那市民の方 無料
伊那市外に
お住まいの方
有料 個人 大人(15歳以上) 500円
子ども(15歳未満) 250円
団体
30名以上
大人(15歳以上) 400円
子ども(15歳未満) 200円
市営駐車場 さくらまつり
期間以外
無料
さくらまつり
期間中
有料 
(1回1台につき)
大型バス・中型バス 3,000円
マイクロバス
(全長7m未満かつ乗車定員29人以下)
2,000円
普通乗用車 700円
自動二輪車 200円

高遠城跡の位置

アクセス

自家用車

中央道伊那インターより国道361号線経由 約30分
中央道諏訪インターより国道152号線経由 約50分

公共交通機関

JR飯田線「伊那市駅」下車の後、JRバス高遠線に乗り換え「高遠駅下車」後、徒歩約15分

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お問い合わせ

伊那市役所 教育委員会 生涯学習課 文化財係
電話:0265-78-4111(内線2724)
ファクス:0265-72-4142

sgs@inacity.jp

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伊那市役所

〒396-8617 長野県伊那市下新田3050番地 代表電話:0265-78-4111

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