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社会教育委員! 我がまちいいとこ10選(令和2年からピックアップ)

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更新日:2023年10月19日

このページでは、社会教育委員自らが、自分の地域の良いところを委員メンバーに紹介する「社会教育委員発! 我がまちのいいとこ10選」で、実際に訪れた場所の中から主だったものを紹介するページです。

高遠石工(高遠町)

推薦者:山﨑恭子(令和2年当時)
江戸時代、信州高遠は石工の里として全国的に知られ、北は青森県、南は山口県に至るまで1都18県で作品を残している。高遠町だけでも2,229基の石仏、石造物が確認されている。
道祖神とは村の守り神として知られ、村境や辻などに立って厄災や疫病が村へ入るのを防ぐとともに、子孫繁栄や五穀豊穣、旅人の安全を祈るなど様々な利益を願うために信仰された。
観世音菩薩は、観音様と親しまれ、人々の苦しむ姿を見るとすぐにその場に駆けつけて苦難を救ってくれるという現世利益の強い仏様。蓮の花を持つ「聖観世音菩薩」、白い衣を着けて白い蓮の中にいる「白衣観音」、十八の腕を持ち正面左右の二手で法印を結ぶのが「准胝観世音菩薩」。頭に馬を抱く姿の「馬頭観音は」は、馬の安全息災を祈ったり、死馬の供養のために建てられたものである。
庚申塔は、昔の暦、干支は六十日、六十年で一回りする仕組みで、庚申(かのえさる)の年は人心が冷めて災いが起こるとし、それを避けるために六十年ごとに建てたものである。また六十日ごとに巡ってくる庚申の日の夜は、体内から三尺(さんし)という虫が這い出し、その人の悪事を天帝に告げ口して寿命を縮めると信じられていました。その夜は一人だと眠ってしまい三尺が抜けだすので、大勢で寝ずに明かす庚申侍という行事も盛んに行われた。
地蔵菩薩はあらゆる人を救済するといわれ、祈りに特別な決まりはなく、自分の願いを直接ぶつければよいとされたことから宗派を超えて多くの人の信仰を集めた。六地蔵とは、六道という輪廻の世界から人々を救うとされている。延命地蔵菩薩は子どもを守り、長寿に導くとされ、右手に錫杖左手に宝珠を持ち、蓮華座に乗っているのが一般的である。

猪垣史跡、下牧河原(西春近)

猪垣史跡

推薦者:太田 伸(令和2年当時)
江戸時代、イノシシやシカなどによる農作物への被害を防ぐために、藤沢川から大田切川に至る標高700mの地域に作られた柵。
現在は、伊那市史跡の猪垣が残り、土手の上に乱杭を連ねた木柵が復元されている。
≪動物たちとの闘い≫
昔の人が動物から農作物を守るために闘い続けてきたことを示す貴重な資料となっている。このような猪垣は、西山山麓に多く構築されたものとされる。
≪村総出の再普請≫
1808(文化5)年、諏訪形の発案で宮三か村(中越、下牧、表木)と赤木村と共同で行った再普請は大規模で、全体で延べ7200人余。諏訪形だけでも延べ2600人余の人手が出て修築が行われた。

下牧川原

「ミヤマ」は辞書・辞典を引くと「奥深い山」の意味であって、実際、植物などの接頭語としての「ミヤマ〇〇」の多くは深い山に生育する種類に命名されている。
一方、ミヤマシジミはどちらかというと里に近い環境で多く生育し、逆に深い山には生育しない。生物の命名例では、「ミヤマ」が必ずしも「山地性」を意味するものとして名づけられているわけではないようだ。「ミヤマ」とは「里地」のことを言うという説もある。
日本に生育するチョウは約240種。長野県では2012年にリストの改定があって、リストからキリシマミドリシジミ、シルビアシジミ、ウラナミジャノメの3種が外され、ナガサキアゲハ、ムラサキツバメの2種が追加されて148種。
追加された種は温暖な気候を好むもので、これを見ても温暖化が進んでいることが実感される。

仲仙寺(西箕輪)

「千匹馬寺」

推薦者:茅原 紘(令和2年当時)
【ことわざ】一匹の馬が狂えば千匹の馬も狂う
意味・・・一人の行動が、他の大勢の行動を駆り立ててしまう
このような意味を表す馬図が仲仙寺にあります。

高遠城址公園(高遠町)

推薦者:寺田 利男(令和2年当時)
高遠城は三峰川と藤沢川に挟まれた河岸段丘の突端に造られた平山城。本丸を中心として取り囲むように二ノ丸、南曲輪、三ノ丸などの曲輪を配しており、環郭式と呼ばれる縄張りである。
高遠は古くから諏訪氏の勢力圏にあり、南北朝の頃より諏訪氏の支族である高遠氏が一円を治めていたが、諏訪から伊那谷へ抜ける交通の要衝であり、駿河や近江に進出するための重要な地点であったことから、戦国時代の天文年間(1522~1555)に武田信玄がこの地を押さえた。その後信玄は高遠城の拡張を家臣に命じ、天文16年(1547)に「鍬立て」を行っている。この時指揮をとったのが山本勘助であると伝えられているが、後にも大規模な改修がされているため、信玄の頃の城の姿は分かっていない。しかし、曲輪の周囲にめぐらされた深い空掘や土塁からは、地形を巧みに利用した戦闘的な城の姿をうかがい知ることができる。武田氏による高遠支配は35年間続いたが、高遠城は南信州の拠点として重要視されたため、城主には諏訪(武田)勝頼や仁科五郎盛信など、信玄の近親者が就いている。中でも天正10年(1582)、伊那谷に攻め入った織田軍と壮絶な戦いを繰り広げた仁科五郎盛信の姿は、後々まで語り継がれている。

とっこ地蔵(富県)

推薦者:中村 幸子(令和3年当時)
むかし、新山久保田のお百姓さんが、ある日山でとっこ(木の根)を掘ってきて、たき物小屋の薪の上に積んでおきました。翌日見ると、とっこが地面に落ちていたので、また薪の上に放り投げました。ところが翌日もまた地面に落ちていました。そこで、今度は囲炉裏で焼いてしまいましたが、翌朝また小屋に落ちているのです。お百姓さんは不思議に思い行者にみてもらったところ、とっこにお地蔵さまがのり移っていることがわかり、それ以来「とっこ地蔵」として祀ることにしました。
昔は、病気の時にとっこ地蔵の服を借りて子どもが着ると病気が治り、お礼に新しい服をお供えしていたこともあり、子どもの護り神として今でも信仰を集めています。きっとこれからも子どもたちをお守りしてくれるでしょう。

駒石(美篶)

推薦者:黒河内 あけみ(令和5年当時)
県道美篶箕輪線の笠原と手良中坪との境付近から東へ600メートルほど上がったところに『駒石』があります。
史蹟の石柱には「伝説に神代の昔、建御名方命が御射山に狩りに来て駒を繋いだので、駒石と呼んだと云われる。また此地名を駒形と云い平安時代に笠原の牧がありここに駒形神社があった。その御神体で駒が伏せたような形をしていたので駒石と言ったと云い、又神々が駒に降り降臨される磐座であったので駒石と言う説もある。兎も角もこの岩は大昔から神聖なものとして里人に信仰され守られてきた」と刻まれています。

六道の堤(美篶)

推薦者:黒河内 あけみ(令和5年当時)
この堤は「まほらいな いいとこ百選」にも選ばれており、ご存じの方も多いと思います。
歴史もあり、遡ること江戸時代の1849年に高遠藩の財政窮乏の対策の一つとして、藩主「内藤頼寧公」により新田開発がはじめられ、1850年9月に完成したと言われています。1848年には、藩直営事業として「六道原」の開墾に着手。高遠町長藤地籍で藤沢川の水を取水して、鉾持除では岩盤をくりぬき、芦沢を通って、この利水工事は美篶末広地区の開発に繋がっています。
堤の周辺には、二百数十本もの大小の桜の木が植えられています。堤の中の島には枝振りの良い赤松の大木もあり「南アルプス」「中央アルプス」の眺望と相まって素晴らしく、特に観桜期は県内外からも大勢の人が訪れています。また、冬の時期は訪れる人も少なく、静寂の中、堤の水面で羽ばたく水鳥も飛来していて、癒しを実感できる場所でもあります。

お問い合わせ

伊那市役所 教育委員会 生涯学習課

電話:0265-78-4111(内線2721)

ファクス:0265-72-4142

メールアドレス:sgs@inacity.jp

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