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名君・保科正之 公

ページID:203245158

更新日:2014年10月1日

保科正之の横顔

 保科正之は、江戸時代のはじめ2代将軍徳川秀忠のご落胤として生まれました。母は、奥女中として江戸城に上がっていたお静です。
 7歳のときに保科家の養子となり信州高遠にきます。成人して、3代将軍家光の異母兄弟と知られるようになりました。26歳で出羽国最上藩20万石の大名となるまで信州高遠に暮らしました。
 人生形成の基礎となる小・青年期の19年間を高遠で過ごした正之は、会津藩23万石の藩主となりました。
 常に思いやりと慈しみをもった民に優しい政治は、ここ高遠藩で培われました。
 幕政では4代将軍家綱の後見人として、その時代の舵取りをした日本のリーダーでした。

正之の行った三大美事

1.殉死の禁止

 主人が死ぬと家臣も共に自殺する殉死を禁止しました。

2.人質制度の廃止

 大名が裏切らないよう養子を人質に取る制度を廃しました。

3.末期養子の縁組

 急死した大名の末期養子の縁組を認め、大名家取り潰しに歯止めをかけました。

民を中心とした政治

1.社倉制度の実施

 藩の米を積み立て、非常時に使われました。これは、民生初の危機管理です。

2.高齢者へのお米支給

 会津藩内の90歳以上の高齢者に、身分や男女の隔てなく生涯お米を支給しました。これは世界初の養老年金といえます。

3.間引きの禁止

 産後の子を殺す悪習を禁止しました。

リーダーシップの発揮

1.玉川上水の開削

 江戸で深刻化する飲料水不足の解消に、民生の安定を優先し実施しました。

2.江戸城天守閣

 1657年に起きた江戸時代最大の火災で、江戸城天守閣も全焼しましたが、江戸の復興と民生の安定が重要として再建費は民のために使いました。

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