このページの先頭です

サイトメニューここまで
  1. トップページ
  2. くらしの情報
  3. 生涯学習・文化
  4. 文化
  5. 伊那市ゆかりの偉人
  6. 伊澤修二先生生家のご案内
本文ここから

伊澤修二先生生家のご案内

ページID:866923026

更新日:2021年12月2日

入場料

無料(ご自由にご覧ください)

開館時間

午前8時30分から午後5時

休館日

無休

駐車場のご案内

伊澤修二先生生家には、隣接駐車場がございません。
伊那市が管理する最寄の駐車場から、徒歩で2、3分です。
駐車場の位置や道順は、関連ファイルダウンロードに掲載の案内図をご確認ください。

施設の概要(伊那市指定史跡)

江戸時代寛政年間(1789年から1800年)に建造されたと推定されます。
東京音楽学校(現東京藝術大学)初代校長や東京師範学校校長等を務め、近代日本の教育制度確立に尽力した伊澤修二の生家で、高遠藩下級武士住宅としての遺構がよく残っています。

伊澤修二(近代教育の開拓者・東京音楽学校(現東京藝術大学)初代校長)

略歴

嘉永4年(1851年)
 高遠藩士伊澤文谷の長男として生まれる。藩校進徳館で学ぶ。

明治3年(1870年)
 大学南校(現東京大学の前身)の貢進生に選ばれた。

明治7年(1874年)
 愛知師範学校長に抜擢された。

明治8年(1875年)
 アメリカに派遣され、ブリッジウォーター師範学校、ハーバード大学で教育学、理化学などを修めた。
 この間メーソンから音楽を、グラハム・ベルから視話法を学んだ。

明治11年(1878年)
 日本へ帰国する。

明治12年(1879年)
 3月 東京師範学校長に就任する。
 10月 音楽取調べ掛に任命される。教員養成、体育、音楽、盲唖教育など未開拓の分野を精力的に開拓した。
 とくにメーソンを招いて近代音楽の確立につとめる。

明治14年(1881年)
 「小学唱歌集」初編を編集発行して音楽教育の方向を定める。

明治19年(1886年)
 文部省編集局長として教科書検定制度を作り、安くて模範的な教科書の編修出版を手がける。
 文部省では文部大臣森有礼の知遇を受けて教育制度の改革に尽くした。

明治21年(1888年)
 東京音楽学校初代校長となる。

明治28年(1895年)
 日清戦争直後の台湾に渡り、民生局学務部長として教育制度、学校教育の基礎を築く。

明治30年(1897年)
 職を辞任した後、貴族院議員となる。

明治32年(1899年)
 東京高等師範学校長となったが翌年病気のため辞職した。

明治36年(1903年)
 「楽石社」をおこして吃音矯正の社会事業に着手し、吃音に悩む多くの人を救済した。

大正6年(1917年)
 死去。
 晩年は国語問題にも関心を持ち、日本語、中国語の発音の研究に尽くし、漢字の発音の統一を念願したが志半ばで急逝した。

主な著書

「生種原始論」(進化論の最初の訳本)「教授真法」「教育学」「学校管理法」「支那語正音発微」など

その他

敷地内に「伊澤先生記念碑」があります。
高遠町文化センター前に、東京藝術大学にあるものと同じ「胸像」が建っています。
関係資料は、伊那市創造館、伊那市立高遠町歴史博物館、高遠町図書館にあります。
名字は「いざわ」ではなく「いさわ」と読みます。
政治家の伊澤多喜男は、伊澤修二の弟です。

関連ファイルダウンロード

PDF形式のファイルを開くには、Adobe Acrobat Readerが必要です。
お持ちでない方は、Adobe社から無償でダウンロードできます。
Get Adobe Acrobat Reader (新規ウインドウで開きます。)

お問い合わせ

伊那市役所 教育委員会 生涯学習課 高遠教育振興係

電話:0265-94-2551(内線131 132)

ファクス:0265-94-3697

メールアドレス:sgs@inacity.jp

本文ここまで

サブナビゲーションここから

お気に入り

編集

情報が見つからないときは

サブナビゲーションここまで

以下フッターです。