伊那谷を代表する俳人・井上井月の紹介
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更新日:2019年4月1日
橋爪玉斎による井月の肖像画
1 井月というひと
井月は、人生の残り三十年余を上伊那で過ごした俳人です。
井月という名は俳諧をする上での雅号です。柳の家や狂言道人といった号も用いています。本名は井月自身が明確に明かしていないため、書簡に記されていた「井上井月」と「井上克三」がヒントになっている程度です。また、素性も細かく話したことはありませんでした。高遠藩老であり俳人であった菊叟(きくそう)(岡村忠輔)が『越後獅子』の序文の執筆を頼まれた際に出自を尋ねたところ、越後国長岡の出身であると話したそうです。
句集、書簡、逸話の記録には井月の素性が見え隠れしています。もともとは武家の出身であったのか、漢学や日本の古典文学の知識があります。また、貞門派や芭蕉の俳諧連歌(はいかいれんが)の影響が、発句(ほっく)・連歌・和歌の中にはっきりと表れています。
井月はそうした教養を活かし、言葉から生まれる雅の世界を楽しんでいたのです。
井月は、羽織袴をまとい、無精髭を生やし、浪人の身なりで上伊那へやって来たようです。痩せ形で長身だったため、歩いているとすぐに判ったようです。金銭への執着がなく、得た銭も飲み食いや紙に使い込んでいました。そのため、落款に使う印や服を質に出してしまう有様で、平生物乞いをして屋敷を転々としながら発句をよく詠み、達筆でよく書を残しました。井月は無頓着な性格であったため、誰からでも頼まれればすぐに一筆認(したた)めて渡していました。それが幸いして、上伊那は井月の書の宝庫となっているのです。
井月が大きく注目されているのは、判りそうで判らないその朧気な人物像、書の巧さ、句の面白さに魅力が感じられるからではないでしょうか。
2 上伊那での生活
井月は越後を出た後、京都へ行って貞門派の俳諧連歌を学びますが、芭蕉の句に魅了され、芭蕉の境地を追い求めて各地を放浪しました。そして、井月が最後に留まったのは上伊那でした。
井月は金や金に代わるものを持っていなかったため、服がボロボロになろうが構わず使い続け、頭のシラミも気にせず、裕福な農家を訪ねては書を一筆認(したた)めて食べ物をもらうなどしていたという話が伝わっています。
あまりに汚らしい格好の人が訪ねて来たら追い返してしまいそうなものですが、当時は農家でも教養人が多く、井月の凄さを解っていたが故に厚い待遇で迎えたのでしょう。
また、酒が好きだった井月は、酒をもらうと「千両千両」と言って喜んだそうです。この言葉は井月が感謝の意を伝えたい時に使う口癖であったようです。
井月は、美篶(みすず)や東伊那・中沢など伊那郡内を行脚中、俳句を教えることもあったようです。俳諧結社円熟社を立ち上げたことで有名な凌冬も先生と言って慕っていました。乞食姿からは想像できない大物であったことが察せられます。明治期に活躍した県内外の俳人の中には井月の門人が多く、本当に驚かされます。中井三好氏の大著『井上井月研究』では、1200名を超える門人が紹介されています。
井月は気の向くままに行脚を続けていましたが、戸籍法が定められた影響で、明治18年ころ、梅関(塩原折治)の弟として籍が入れられることとなります。『余波(なごり)の水くき』に
・落栗(おちぐり)の座を定めるや窪溜(くぼだま)り」
の句がありますが、これは、そんな井月の姿を表しています。漸く落ち着いた井月でしたが、明治19年に衰弱が激しくなり、翌年、帰らぬ人となりました。庵を結べなかったことは心残りだったことでしょう。
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