Vol.1 第19回歴博講座「絹織物と養蚕技術の発展」(1)
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更新日:2021年8月4日
皆さん、初めまして。今回から始まる高遠町歴史博物館通信「歴博びより」の担当になりました新米学芸員の北島智也です。この歴博びよりでは、高遠町歴史博物館の活動の様子などを皆さんに紹介していきます。
さて、初回となる歴博びよりのテーマは、令和3年5月29日(土曜日)に歴史博物館隣接の地域間交流施設で行われた第19回歴博講座についてです。今回の歴博講座は、当博物館で6月20日(日曜日)まで開催した特別展「服飾文化を支えるシゴト」に関連して、駒ヶ根シルクミュージアムの中垣雅雄館長(農学博士)を講師としてお招きし、「絹織物と養蚕技術の発展」と題して講演をしていただきました。今回は、講演の題にもある養蚕技術の発展について紹介します。
講師の中垣雅雄館長
蚕×クモ糸遺伝子の「スパイダーシルク」
信州では、奈良時代(717年頃)にはすでに養蚕が行われ、絹に比べて粗悪な品質の蚕糸製品を産出していた記録があります。江戸時代になると、武士や裕福な商人・町民がこぞって絹織物を着用するようになり、絹の需要が増加しました。当時は上質な生糸・絹織物は中国からの輸入品だったため、その支払いのために日本から大量の銀が流出する事態になりました。これを無視できなくなった幕府は生糸の国内生産を増やすため、蚕の品質改良を進めました。この頃、信州の諸藩も財政を豊かにするため、養蚕や生糸・絹織物作りに力を入れました。
養蚕といえば春蚕が中心でしたが、信州では江戸時代から夏蚕用の在来種が飼育され、明治時代には特に松本地方で夏秋蚕が早くから発達していました。その理由として、夏秋蚕の時期が農閑期で好都合であったこと、遅霜の多い高冷地では夏秋蚕の方が適していたことがあります。そのため、長野県では夏秋蚕を飼う農家が増え続け、明治31(1898)年には夏秋蚕の収繭額が春蚕を超える程になりました。
信州では蚕種業(蚕の卵を販売する仕事)も盛んで、江戸時代には「小石丸」「大草」「青白」「掛合」などの数多くの優れた新品種が作り出され、「信州の蚕種はよく当たる(良い繭がとれる)」と国内各地で評判でした。蚕種業者を蚕種屋とも呼びましたが、信州の蚕種屋は蚕種の販売を併せて養蚕の技術指導も行っていました。蚕種屋によって書かれたマニュアル「養蚕書」も、塚田与右衛門『新撰養蚕秘書』(1757年)・清水金左衛門『養蚕教弘録』(1847年)など多く残っています。伊那郡北部(現在の上伊那地域)においては、高遠藩の藩医であった林宗賢によって『養蚕秘伝集』(1817年)が著されました。これは文字の読めない農民女性たちに読み聞かせる口伝書としてもまとめられていて、上伊那地域の養蚕技術の向上に貢献しました。『養蚕秘伝集』は養蚕の専門家ではない宗賢が、自身の利益に関係なく、上伊那地域の養蚕技術を向上させるためにまとめた啓蒙的な養蚕書であるため、その意義は大きかったのです。
信州から優れた新品種が生まれた
人気品種で海外に飛ぶように売れた青白
では、今回の歴博びよりはこのあたりで。また次回の歴博びよりでお会いしましょう。
令和3年6月 北島智也
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