Vol.4 第4回歴博カフェ「阪本天山 その学と人」(2)
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更新日:2022年2月1日
皆さん、こんにちは。歴博びより担当、学芸員の北島智也です。
今回の歴博びよりは前回に続き、第4回歴博カフェ「阪本天山 その学と人」の内容を紹介します。前回の歴博びよりでは、天山が郡代に抜擢されるまでを紹介しました。
講師の北原紀孝高遠郷土研究会長
伊澤修二の書「仰之愈高 望之愈遠」
職務に励む天山でしたが天明7(1787)年に郡代を解任され、閉門・蟄居を命じられます。処罰の原因として、原市郎右衛門との論争が挙げられます。郡代配下の足軽について論じた際、数年は同じ役職に留めるべきと考える天山と短期間での異動を主張する原は対立しました。天山は論争後に退職願を出したのですが、事前に藩主へ相談しなかったことが軽率な行為とされ、罰せられたというのです。また、藩の大砲を鋳造した際、余った鉄で自分の大砲を作ったという疑いを原因とする説もあります。
寛政元(1789)年に罪を許された天山は、大阪や京都でさらなる勉学に励みます。寛政12年には藩からの再出仕の要請を断り、高遠を出て関西・九州へ向かいました。講師の北原紀孝高遠郷土研究会長は、天山は高遠に嫌気がさして出て行ったのではないかと説明しました。高遠藩では大砲などの費用は負担であり、砲術もあまり重要視されませんでした。海外の情報が集まり、砲術が必要とされる西国に天山は惹かれたと考えられます。
高遠を去る際、天山は『題壁』という詩を残しています。
半百にして、信地を辞し、三世、故土に帰す。
漸く知る。過は遯に係わるを。塵粉、数うるを須いず。
(頭髪も半ば白くなった頃、住み慣れた信州の地を去って、先祖三代のゆかりの地大阪へ帰ることとなった。前に藩内で事件に巻き込まれ、易の卦を見たところ、過と遯とが表われたが、別々に占ったこの二つが相互に関係があったのを今ようやく知った。だが、もはや今となっては、世俗のこんなつまらないことなどはどうでもいい。)
岡部善治郎著『阪本天山の生涯』,高遠町発行,1995年11月,59ページ
平戸藩家老の長村鑒は天山について、見識が突出していて砲術も諸家・諸流派の長所を総合したものと評しています。天山の指導は厳格でしたが、懇切丁寧で優れていたそうです。大演習の際には、天山の砲術が極致に達したと称賛しています。
享和3(1803)年、天山は病のために59歳で亡くなり、長崎の晧台寺に埋葬されました。
高遠の門人たちは天山の学に他学派の説を取り入れ、「高遠の学」を築きました。「高遠の学」は中村元恒・元起父子により完成され、元起の代に藩校「進徳館」が創設されます。進徳館からは、伊澤修二などの優れた人材が輩出されました。「高遠の学」や「進徳館」の基礎には天山の学問追究の精神があり、天山の生き方そのものが影響しているといえます。
今回の歴博びよりはこのあたりで。また次回の歴博びよりでお会いしましょう。
令和4年1月 北島智也
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