Vol.2 第19回歴博講座「絹織物と養蚕技術の発展」(2)
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更新日:2021年8月9日
皆さん、こんにちは。歴博びより担当、学芸員の北島智也です。今回も引き続き、第19回歴博講座「 絹織物と養蚕技術の発展」の内容を紹介します。
講師の中垣雅雄館長
会場内の様子
江戸末期から昭和中期、信州は日本の蚕糸業をリードしていました。蚕糸業は、蚕種業(蚕の卵を売る)・養蚕業(蚕を育て繭を出荷する)・製糸業(繭から糸を取り生糸を作る)の大きく3つからなる産業です。信州では古くから養蚕が盛んで、県歌「信濃の国」3番にも歌われています。
しかのみならず桑採りて 蚕飼いの業の打ちひらけ
細きよすがも軽からぬ 国の命を繋ぐなり
なぜ信州は養蚕が盛んだったのでしょうか? その理由は、信州の地形にありました。江戸時代、年貢となる米作りや食糧生産が重視され、生産力の強い本田畑での稲以外の作付けは制限されました。養蚕で使う桑の栽培は川の沿岸や中州、山の傾斜地などで行われました。平野が少なく山の多い信州の地形に、根を2メートル近く土中に伸ばして川の氾濫や急斜面にも負けず成長する桑が合わさったことにより、信州の桑栽培・養蚕業が盛んになったのです。
明治5(1872)年、日本初の近代的製糸工場である富岡製糸場が操業開始すると、そこで学んだ工女たちにより県内各地の製糸場に最新の製糸技術がもたらされ、長野県の製糸業は飛躍的に進歩しました。その後、長野県は生糸生産量(明治10年)・生糸輸出額(明治13年)で日本一となり、まさに日本の蚕糸業を支える蚕糸王国へと成長したのです。
ただ、伊那谷は有力製糸場が少なく、製糸業の中心地となった岡谷・諏訪地域への繭供給地となっていました。繭買商人(仲買人)に繭が安く買い叩かれる状況を打開するため、明治31年には養蚕農家が自ら経営する産業組合製糸「上伊那蚕業合資会社」が発足しました。明治38年、産業組合法により製糸会社では日本初の正式認可を受け「有限責任上伊那組合」と改称。大正3(1914)年には巨大企業の営業製糸と対抗するため、8つの組合製糸が加入する有限責任伊那生糸販売組合連合会「龍水社」が発足、赤穂村(現駒ヶ根市)に本社を置きました。戦後、龍水社は製糸業界の再興が遅れる中、養蚕農家が自ら経営するという強みを生かして早くに再建を果たし、そのおかげで伊那谷も県下唯一の養蚕地帯であり続けました。平成9(1997)年、龍水社は繭生産減少に伴い製糸部門を廃止。農村救済に大きな功績を残した歴史に幕を閉じました。
解説する木嶋孝子さん(右)
鮮やかなハンガリー刺繍
では、今回の歴博びよりはこのあたりで。また次回の歴博びよりでお会いしましょう。
令和3年6月 北島智也
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