今こそ知る、陸軍伊那飛行場ー紡がれる平和の糸ー
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更新日:2025年7月29日
戦後80年。戦争を経験した方から話を聞く機会が少なくなり、風化する戦争の記憶をいかにして語り継いでいくか、また、掘り下げていくかが一層の課題です。
伊那市にはかつて「陸軍伊那飛行場」という巨大な飛行場がありました。その名残は、現在ものどかな住宅地の中で見ることができます。
飛行場について調査・研究を行う中で、戦後80年が経って初めて分かった事実や、つながった縁もありました。陸軍伊那飛行場について知ることで、今一度、平和の尊さや大切さを考えてみましょう。
陸軍伊那飛行場とは
現在、住宅や水田、工業団地が広がる上の原区、上牧区、前原区周辺に陸軍伊那飛行場はありました。その敷地は南北約2・
5km、東西約0・8kmと巨大なものでした。
飛行場建設作業の様子
熊谷飛行学校の分教所として
陸軍伊那飛行場が開所したのは1944年2月のこと。太平洋戦争が激しさを増し日本の劣勢が続くなか、国内最大級の飛行兵の訓練・養成機関であった熊谷飛行学校(埼玉県)の分教所として開かれました。飛行場の建設には、地元住民だけでなく、学生や朝鮮人も多く動員され、過酷な作業が課せられました。
赤トンボの前で写真を撮る生徒
少年航空兵などの訓練
飛行場では少年航空兵や見習士官などが3カ月の訓練を受けた後、戦地へ配備されました。中には特別攻撃隊員(特攻兵とい
う決死の任務で戦場に向かう隊員)となって戦地へ飛び立ち、犠牲となった隊員もいました。当時は飛行訓練のため、赤い複葉飛行機(通称赤トンボ)や単葉飛行機(通称飛燕)などが、終日伊那の空を飛び回ってたといいます。
日本軍の敗北が濃厚になるにつれ、各務ヶ原陸軍航空廠(岐阜県)伊那出張所に組織替えになり、特攻機への改装や、部品の生産を行ったほか、伊那町の防空を担いました。
その後も西箕輪に第二飛行場の建設が始まるなど、伊那の地はさまざまな分野で戦争への協力が強いられました。
終戦後、アメリカ軍によって陸軍伊那飛行場は廃止となりました。
現在も残る戦争遺跡
現存する格納庫のコンクリート基礎
高校生の調査がきっかけに
陸軍伊那飛行場は、存在そのものが軍事機密とされ、終戦後には記録文書が焼却処分されたこともあり、しばらくその存在
を忘れ去られていました。しかし、地元の高校生たちがその歴史を掘り起こし、まとめたことをきっかけに、改めて伊那市の
戦争の記憶として語られるようになりました。
遺構の保存と看板設置
上の原保育園の目の前には、かつての第二格納庫だった頑丈なコンクリート基礎が残され、説明の看板も設置されています。また近くにはレンガ作りの弾薬庫や自動車車庫の基礎も見ることができ、これらの戦争遺跡は、改めて平和の大切さを伝える遺産となっています。
1935年12月 | 熊谷陸軍飛行学校設置(日本陸軍の軍学校の一つ) |
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1944年2月 | 熊谷陸軍飛行学校伊那分教所開所、第1回見習士官学生入校 |
5月 | 飛行場建設に学徒勤労奉仕始まる |
9月5日 | 陸軍伊那飛行場完成 |
11月 | 見習士官学生(特三期)特攻訓練を行う |
1945年2月 | 熊谷陸軍飛行学校伊那分教所から各務原陸軍航空廠伊那出張所に組織替え |
6月 | 中島飛行機工場(愛知県)付属飛行場を大萱(西箕輪)に建設開始 |
8月 | 広島(8.6)、長崎(8.9)に原爆投下 |
8月15日 | 終戦(ポツダム宣言受諾) |
9月 | アメリカ軍が熊谷陸軍飛行学校跡地を接収 |
10月 | アメリカ軍が伊那飛行場を接収 |
父が伊那の地にいたことを初めて知って
資料を見ながら話す米田さん(左)と塚田館長(右)(令和7年4月4日)
この春、陸軍伊那飛行場の所長を務めた米田主登さんの子、米田主美さんが伊那市を訪れました。
長年、生まれる前に亡くなった父の痕跡を探していた米田さん。昨年、高遠町歴史博物館の塚田館長から「お父さんが陸軍伊那飛行場の所長を務めていた資料が見つかった」という手紙が届き、初めて父が伊那にいたことを知りました。
塚田館長や伊那市誌編さん委員会副委員長の山口通之さんらの案内で、市内を回った米田さん。戦時下で苦労された伊那の方々への償い、亡くなった父を想い、陸軍伊那飛行場の跡地で献花された米田さんからのメッセージを紹介します。
伊那と熊谷をつないだ一通の手紙
米田 主美
昨年11月、伊那市立高遠町歴史博物館館長の塚田様から思いがけないお手紙をいただきました。富県公民館で戦時中の庶務綴りが見つかり、各町村長宛に父が出した懇談会の案内状が見つかったというのです。生まれる5カ月前に死んでしまった父の名前が目の前にある、その時の私の驚きようといったらありません。
飛行場建設のために地元の方々は桑畑など生活の地盤が奪われ、労働酷使を強いられた大勢の学徒、朝鮮人の方々がいたということがわかりました。
父は軍の命令によって熊谷から伊那へ分教所所長として任に就きました。しかし、半年後には久住山上空で重爆撃機に乗って二十八歳で命を落としています。未だ遺骨も見つかっておりません。
父の手がかりを知ることができるたくさんの資料を用意してくださりやっと80年目に平和の糸を紡ぐことができました。南アルプスを臨む広大な飛行場跡には格納庫や弾薬庫など当時を物語る遺構が残されていて軍靴の音が聞こえてくるかのようでした。
父も歩いた伊那谷に、温かく迎え入れてくださった伊那の方々に深く感謝いたします。
「米田主登」の名前で近隣の町村長と助役に 宛てた懇談会の案内状(昭和19年8月2 9日付)
献花する米田さん(令和7年4月17日)
戦争の記憶を風化させないために
黙とう
- 広島平和記念日
8月6日(水曜)午前8時15分から
- 長崎原爆の日
8月9日(土曜)午前11時2分から
- 戦没者を追悼し平和を祈念する日
8月15日(金曜)正午から
原爆パネル展
原爆の悲惨さを知っていただくため、原爆に関するパネルを展示します。
期間:8月1日(金曜)から17日(日曜)会場:伊那図書館1・2階
陸軍伊那飛行場とその時代2
西箕輪に計画されていた第二飛行場についての事柄など、新たに
判明した事実を掘り起こした展示です。
期間:7月26(土曜)から12月26日(金曜)会場:伊那市創造館1階
問い合わせ先
お問い合わせ
伊那市役所 総務部 秘書広報課 広報広聴係
電話:0265-78-4111(内線2131 2132)
ファクス:0265-74-1250
メールアドレス:his@inacity.jp
