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伊那時代の野田知佑

ページID:616418433

更新日:2023年9月29日

真似てはならぬ魅惑的な世界

 以前暮らしていた古い家には、いつも不思議な人種が2~3人住んでいた。後にリバーカヤックの先駆者・カヌーイスト・作家となった野田知佑さんをはじめ、北極点やアフガニスタンなど世界を駆ける写真家・2001年9月11日にテロによって崩落した世界貿易センタービルの再建を撮り続けた写真家の佐藤秀明さん、ロス疑惑の三浦事件を翻訳して巨万の富を得た?中川剛さん、日本版リーダーズダイジェスト最後の編集長塩谷紘さん、角川書店の編集部を辞めて、後に日本にアパラチアントレールなどのロングトレールを紹介した加藤則芳さん、代表作「桜島」や「砂時計」などの作家、梅崎春生の息子や名前は忘れたが、いつも木靴を履いているフランスのホテル王などである。彼らを軸に、知人が知人を呼び、日本各地・世界各国から、入れ替わり伊那を訪ねてきては我が家の古い家に滞在していた。

 彼らは基本的には自由だった。今日は何をしなければならないという決まりはなかった。雨が降れば本を読み、暑い夏には大泉ダムにカヌーを浮かべ、ヒグラシの声を聞く頃に帰る。気ままな生活だ。
 「野田さん、お盆花を山に取りに行かない?」と誘えば、「うん、いいよ」と二つ返事でついてくる。「みんなで、ソフトボールをしようよ」言えば、なぜか日本各地から、ソフトボール好きがうようよと集まってくる。信州大学農学部のグラウンドで、ビールをワンケース賭けての決戦だ。何もかも羨ましい自由さだったが、決して真似してはならぬと誓った魅惑の世界でもあった。

 ある日、僕が会社から帰ると、野田さんが呼びに来た。「孝さん、ちょっと家に来ない?」口もとをわずかに綻ばせていた。何だろう?とついていくと、古い家の風呂場に手招きした。そして「どうだい!」と風呂のふたを開けると、水を張った浴槽に、巨大なアマゴが暴れまわっていた。バシャバシャと50cmは優に超える巨大なアマゴが数匹、それに夥しい数のアカウオとコイである。当時の古い家の水道は、山から引いた冷たい水の簡易水道だったから、渓流魚のアマゴも生きていた。

 「すっげぇ~。なんだこれは~!」と野田さんの顔を見ると、口ひげをひくひくさせて、自慢げな漁師の顔をしている。「釣ったの?」「どこで?」。「教えない」と言いつつも、しゃべらずにいられなくなって「大泉ダムでね、潜って獲ったんだ」。うそだ、いくら素潜りが得意とはいえ、ダム湖の魚を追い回して獲るなんて、できるはずがない。とうとう漁法は黙秘を通したが、アマゴは信じられないほど巨大なお化けだった。

 その晩、風呂の巨大アマゴを刺身やぶつ切りにして、酒のつまみに食べて飲んだ。翌日も野田さんは、アカウオの煮付けとコイコクを作って僕の帰りを待っていた。まだ風呂には生きたアマゴが何匹もいて、しばらくは焼いたり、煮たり、刺身にしたりして食べた。風呂の魚を全部食べてしまうまで、野趣あふれる酒宴が何日も続いたのである。それにしても、あんなバカでかいアマゴを見たのは、後にも先にもない。「野田知佑、恐るべし!」だ。

やや無名な頃の野田知佑

 川遊びのひとつに、カヌーがある。カヌーをする人をカヌーイストと呼ぶ。僕の知人にもカヌーイストが何人かいて、天竜川のみならず、日本各地の川へよく出かけている。川をのんびりとカヌーで旅することを、ツーリングといい、気ままな川旅でスリルも適度にあって楽しいらしい。
 カヌーの魅力は、まず川の中から風景を見ることができることにある。それに、目線が水面に近い事も驚きの発見だ。川に浮かぶ水鳥と同じ位置にあるから「ふーん、かれらはこんな風に景色を見ているんだ」と感心したりする。カヌーの横をスーと泳ぐ魚も新鮮だ。自然に親しむスポーツのなかでも、カヌーは人気が高い。後に日本を代表するカヌーイストであり、エッセイストで知られる野田さんが伊那に暮らしていたことはほとんど知られていない。自由で奔放な日々を伊那で送っていた数年間のことに触れてみよう。
 今から40数年前、野田さんは伊那市西箕輪中条に住んでいた。40才頃の野田さんは、我が家の空き家に3、4年ほど暮らしていただろうか。まだ全然売れない作家で、貧乏だったが暇だけはあった。毎日エッセイを書き、退屈すると大泉ダム湖へ行ってカヌーを浮かべ、川へ潜ってはアマゴを捕まえてくる。当時、白鳥家はコンデンサ製造の小さな下請け工場をやっていて、忙しい時には野田さんを呼んで、コンデンサ製造のラインに座らせていた。が、30分もするとスーと居なくなる。誰も気づかない見事なほどの消えかただった。コンデンサ製造機械を、内職をしてもらっていた家に運ぶことがあった。信大農学部北の、大萱団地のその家まで、150kgほどの機械を台車にのせて、2人で慎重に運んで行った帰り、学生寮の「中原寮」の横を通っていると、粗大ごみのゴミ捨て場があった。野田さんは本能的になにかあるかもしれないと駆け寄っていくと、新品同様の登山靴「キャラバンシューズ」を持ってきた。「大収穫だ!サイズもぴったりだ」と欣喜雀躍の野田さん。確かに新品に見えるが何か変だ。「それ、両方とも右足じゃあない?」
 寒い冬が近づく頃になると、僕の母に「ちょっと出かけます」と、九州や四国などの暖かい地方へふら~っと行ってしまう。そして春が近づくと、またふら~ふら~と伊那に戻ってくる。「孝さん、山陰を旅してね、浮浪者と一緒に生活してきたんだ。実にいいんだな。自由で豊かななんだな、彼らは」
 少し遠くを見つめる目つきで、幸せだった旅の話をしてくれる。僕は、「いやいや、浮浪者を自由人として憧れる野田さんも、僕から見ればどちらも甲乙、いや、丙丁つけがたい人種と思うのだが」と、大学を卒業して会社に勤め始めたばかりの僕は、毎日が日曜日の野田さんが、大層羨ましく思えてならなかったものだ。
 そんな丙丁つけがたい自由人の野田さんが、ある日「カヌーで孝さんの会社まで出勤しよう」と言いだしたのだ。当時、僕の勤めていた会社は、南箕輪村の天竜川沿いにあった。JR伊那北駅東の二条橋あたりから会社まで、暴れ天竜を遡って、カヌーで出勤しようと言うのだ。こんな突飛なことは、ひまな人しか思いつかない。
 カヌーで出勤しようと企てたプランでは、二人艇のファルトボートと言う組み立て式カヌーを使用することにした。だが、奇抜な計画の割には準備は周到ではなかった。酒の上での話だったから、ともかく梅雨が明けた、川の状態が安定した頃に決行する程度だった。
 カヌーで出勤における、初心者の心得として「孝さんはカヌーの前で、ただ死に物狂いに漕げばよい」と、それだけである。あとは後ろで「いちに、いちに」と声をかけながら舵をとれば、天竜川を遡れるという。何となく僕が馬で、野田さんが馭者のような関係に思えなくもない。

 会社まで距離にして約5.5km、2~3時間と計算したが、本当のところはわからない。野田さんは毎日が日曜日だから時間はたっぷりある。2時間が4時間になっても、4時間が1日なっても問題はない。だが僕はそうはいかない。入社2年目の社員が、カヌー出勤が理由で遅刻などできるものではない。そこで僕の強い希望で、出航は未明にすることにした。
 そして、いよいよ決行の日がきた。必ず未明に出発しようと、あれほど約束したのに、家を出たのはいつもの出勤時間だった。原因は大成功を祝して大騒ぎした前夜祭にある。出だしから「遅刻するかもしれない」が、「絶対遅刻する」に変わってしまった。急いでファルトボートを車につけて、天竜川に向かった。

 天竜川について驚いた。なぜか増水しているのだ。濁流が眼の前にある。諏訪地域で局地的な豪雨があったのか、諏訪湖の水位調整のための放流だろうか。しばらく川をじっと見ていた野田さんが、「やめよう」と言った。内心ほっとした。
 初めてのカヌーの不安もあるが、カヌーで出勤するために、絶対に遅刻する後ろめたさから解放されたこともある。壮挙を前に、ちょっとだけ残念な気もするが、今日はこのまま会社へ行けばまだ間に合う。
 すると野田さんが「孝さん、これから千曲川へ行こう」と言いだした。
「えっ!」
 結局、僕は千曲川へは行かず出勤したが、野田さんは、翌日、本当に千曲川へ出かけて行った。そして、この千曲川のカヌー下りが、2年後の1982年、日本ノンフィクション賞新人賞となった「日本の川を旅する・カヌー単独行」のなかに物され、一躍ノンフィクション作家として脚光を浴びることになったのである。

野田さんの死

 野田さんが亡くなった。2022年3月27日に息を引き取った。84年の生涯だった。月刊誌「BE―PAL」に連載していた「のんびりいこうぜ」は多くの読者を惹きつけ、カヌーイストからは、神様のような存在と崇められていた。ひとつの時代が終わった気がする。

 もう、25年ほどにもなるだろうか。野田さんから一枚の葉書が届いた。「引っ越しました」とだけある。住所は徳島県日和佐町(現 美波町)。これほどシンプルな葉書ははじめてだった。数年後の11月下旬、徳島の剣山に登ったついでに、野田さんの自宅に寄ってしこたま飲んだことがある。愛媛県の松山市で、シンガーソングライターのみなみらんぼうさんをピックアップして、山仲間数人と、日和佐の野田邸で賑やかな宴会を楽しんだ。家の前には川があって、庭にはワンドが造られている。この川は太平洋までつながっていて、ワンドからカヌーで海まで遊びに行けるようになっている。川はモクズガニもウグイもスズキも獲れる豊饒な場所なのだ。
 日和佐の夜、野田さんから、「孝さん、いつかユーコン川へ行こう」と誘われた。ユーコン川はアラスカを流れる大河で、野田さんにとっては聖域の川なのだ。のんびり下れば、1ヶ月ほどかかると言う。今思えば、野田さんの口車にのっていたら、また違った人生があったかもしれないと、ちょっぴり残念な気がしないでもないと思うのだ。
 野田さんの知られざる伊那での数年間。今、思い返しても、つくづくと自由で楽しい時代だったと思えてくる。

「清流」 まほら伊那市民大学 令和4年度修了記念文集 掲載

伊那市長 白鳥 孝

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