米さんのこと
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更新日:2025年11月10日
登山靴を履いてスパッツをつけ、重いザックを担いで冬の北八ヶ岳に向かったのは、2015年3月14日でした。山はまだ銀世界で、アイゼンをつけないと歩けません。
渋の湯まで車で入り、目的地は黒百合ヒュッテまで、シラビソやコメツガの樹林帯を3時間程度の登りです。総勢8名、医師・作家・会社員・公務員などのメンバーで、共通しているのは山好きであることと、誰もが斗酒なお辞さない酒好きであることでした。それに黒百合ヒュッテの主、うわばみ米さんこと、米川正利さんも一緒のパーティーでした。

冬の天狗岳
米さんとは、私が日本山岳会に入会した20数年ほど前からつき合いが始まりました。酒好き同志、信州と甲州の岳人でつくる「甲信山友会」や「日本山岳会信濃支部」で、最後まで飲んでいる輩は米さんと私でした。時には八ヶ岳青年小屋の竹内氏も加わり、何本もの一升瓶が空いたこともありました。松本の飲み屋で酔いつぶれ、茅野市玉川の自宅まで送ったことがあったり、一緒に飲み明かしたことは数知れません。そして米さんの特技は、どんなに酔っぱらっていても、雪道で転ばないことです。冬でも長靴でアイゼンも着けず、ピッケルも持たず、登りも下りもフラフラしながらも決して転ばない不思議なバランスを持っていました。それに酔っぱらうと自分が鳥になったと勘違いをし、山小屋の前の「ガマ岩」から両手を大きく広げ「飛びます、飛びます」と言って大けがをすることもよくあったと言います。ともかく面白い人でした。
歩き始めて一時間もしない頃です。米さんが「そろそろ休みましょうよ」と言いました。「そうですね。そろそろ始めましょうか」と、ザックをおろして大休止です。みんなで雪を踏んで固め、シートを敷き、宴会場の出来上がりです。
雪の樹林帯で宴会です。メニューは焼肉・鍋・刺身・塩辛・チーズなど、アルコールは日本酒・ビール・ワインと米さんの好きな麦焼酎です。横の登山道を歩く登山者から一瞥されても一向に気にすることもなく、「冬山で焼き肉をして酒を飲むなんて!」と唾棄されても、延々と雪の大宴会は続いたのでした。

雪中鍋料理
「そうはいっても、そろそろ行かないと夕食に間に合わないから」と腰を上げてから、黒百合ヒュッテまで遠いこと。米さんはいつ転ぶのかと期待の耳目が集まっても、一向に転ばないまま黒百合ヒ焼酎です。横の登山道を歩く登山者からュッテに着きました。
さっそく二次会だと、米さんとビール・焼酎で乾杯していると、何となく外が明るくなってきました。ガスに包まれた黒百合平が夕焼けで赤くなってきたのです。折角冬の北八ヶ岳に来たのだからと、小屋から20分ほどの中山峠まで行ってみようと外に出ました。

ピンクに染まる黒百合平
みんなを誘ったのに、昼からの酒でとても歩ける状態ではない、外に出る元気も失せた酔っぱらい達は誰も乗ってきません。唯一U氏だけが同行したのですが、見たこともない風景と自然現象に大感激の様子でした。小屋の東は「黒百合平」の雪原、小屋の前は累々と岩の重なった「ガマ岩」の小ピーク。辺り全体がガスに包まれ、雪を纏った針葉樹林と中山峠を渡る雲はすべてピンクに染まり、神々しいほどの風景でした。小屋に戻ると一行は一眠りして起きたところで、さて飲みなおし仕切り直しと三次会が始まって、他の宿泊者も加わり楽しい時間が続きました。
翌朝、今回の目的である天狗岳(2646m)に登ろうと暗いうちに起きて支度をしていると、米さんが起きてきて、「白鳥さん、ちょっとお茶を飲まない?少し泡の出るお茶」、「えっ!、これから僕たちは天狗岳に登るんですよ」と言う先から缶ビールを持ってきて、「僕は長年ここにいるから、今日は天気が悪いことがわかるんだな。危ないからこんな時は行動しない方が安全なんだ」、「それに一人で飲むのは気が引けるから、一緒につき合ってよ」と小屋の経営を任せている長男の岳樹君に少し気兼ねしているようでした。結局500mlビールを3本ほど飲んで、自然と焼酎に変わり、塩辛をつまみに朝から二人の宴会が始まったのでした。
宴会は、「白鳥さん、今回は冬の天狗岳に登ることを楽しみにきたメンバーばかりだから、行きましょうよ」のM氏の言葉で終了となりました。少しほろ酔いで、強風のなかを天狗岳に向かったのでした。「山になんか登らないで、僕と飲んでいる方がいいのに」と米さんの寂しそうな顔が思い出されます。

ありし日の米さん
実は、米さんはただの酔っぱらいではなく、天皇陛下徳仁さまが皇太子時代最後の登山に、天狗岳を案内しているのです。
米さんは「皇太子殿下は、今までに何度か天狗岳にご案内する計画があったけれど、その都度事情があって登ることが叶わないでいる」、「天皇陛下になられたらおそらく登山はできないだろうから、今回が最後のチャンスになるだろう」と、自身の股関節の手術をしてまで案内できるよう準備をしていたのです。
天皇陛下は、2017年9月20日(水曜)に黒百合ヒュッテにお泊りになり、翌21日(木曜)、米さんは、天皇陛下をご案内して天狗岳に登頂したのでした。天気は最高の秋晴れ、米さんの人なつっこい笑顔が浮かびます。

ヒュッテ近くのテント場
そんな米さんは、今年の2月25日(火曜)に亡くなりました。ここしばらく足の調子が悪いと聞いていたけれど、電話では「白鳥さん、歩くのが少し不自由だけれど、お酒は飲めるから遊びに来てよ。一人だと飲みにくいからさ」と話したのが最後となりました。
米川正利さん 享年84才。満面の笑みを人々に与え続け、楽しくも濃い人生を歩んできた米さんとはもう飲むことはできません。
「清流」 まほら伊那市民大学 令和6年度修了記念文集 掲載
まほらいな市民大学学長 伊那市長 白鳥 孝
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