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たき火通信 其の五十七

ページID:232590347

更新日:2015年4月1日

天竜川の通船

 「柳から出ていく舟の早さかな」、柳の枝の向こうを小舟がさぁーと過ぎていく、スピード感のある情景の俳句です。「春風に待つ間程なき白帆かな」、川の岸辺に腰をおろして、春風に帆を膨らませて舟が通るのを眺めている句です。いずれも井上井月(いのうえせいげつ)の俳句で、頃は江戸の末期か、明治の初めの天竜川が舞台の俳句です。他にも「青柳や乾きの早き洗舟」と、河原に干してある舟をうたった句もあります。
 伊那市坂下区の天竜川に架かる大橋の袂(たもと)に、史蹟「天竜川舟着場跡」の碑があります。かつて天竜川では通船(つうせん)が活躍した時代がありました。今から190年ほど前の、文政年間から明治末期までのおよそ80年間のことです。現在のように天竜川は護岸が整備されておらず、広い川の澪筋(みおすじ)は西へ東へと洪水のたびに変わり、不安定な水量の天竜川に舟を操(あやつ)っては、下流の駒ヶ根や飯田、さらには浜松の遠州灘までその活躍の場がありました。上流からは生糸(きいと)、繭(まゆ)、木材、石灰、シイタケ、米などが、また下流からは塩、魚介類、干し柿などが運ばれたといわれます。大量輸送と天竜川の西と東を、自由に行き来できる舟は随分と重宝されたものと思われます。
 川下から流れを抗(あらが)って舟を運び上げるには、帆をはって風の力をかりたり、何人もの男衆が川岸から綱を引っ張ったり、大いなる苦労があったことでしょう。諏訪から浜松の掛塚まで50数里、およそ210キロメートルの天竜川を舞台として通船が活躍していたのです。そして時代がかわり、中央線や伊那電気鉄道(現:飯田線)が敷設され、運送も荷馬車の時代になると、天竜通船もその役割を終えて消えていきました。今では碑とわずかな白黒写真、文献、それに井上井月の句に記憶がとどまっています。
 平成27年4月 白鳥 孝

天竜川舟着場跡(写真)

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