たき火通信 其の百四十四
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更新日:2022年8月24日
盟約50年の三宅村と伊那市
蒼天の三宅島は遊びどころ満載です
東京の竹芝埠頭から三宅島へ向かったのは、平成27年(2015年)の11月でした。22時30分発のあぜりあ号の船旅は新鮮で、三宅島の阿古漁港に着岸したのが翌日の朝5時頃でした。今回の視察の目的は、親善友好都市の三宅村で開催される「三宅島産業祭」への参加と三宅村の皆さんとの交流でした。産業祭ではテントが並び、なかでも「伊那産リンゴ」と「高遠まんじゅう」のブースは大人気でその長蛇の列には驚きました。
三宅島は平成12年(2000年)に島の最高峰の雄山(775.1m)が噴火をし、当時の島民約4,000人が全島避難した経過があります。避難は4年以上にわたり、三宅の人々は大変な苦労をされました。噴火の凄まじさは今でも島内のそこかしこに残っていました。神社の鳥居が一番上の「笠木」だけ残して泥流に埋まった姿や、旧阿古小中学校が溶岩流によって校舎がほぼ埋まり、コンクリートの屋上が見える爪痕など、噴火当時はどれほど凄惨な様子だったか想像すらできませんでした。
旧高遠町と三宅村は、昭和45年(1970年)に「絵島・生島事件」を縁に「友好町村盟約」を結びました。江戸時代のこの事件は、大奥の女中トップの絵島と、歌舞伎役者の生島新五郎の密会疑惑から、絵島は信州高遠藩に、生島は三宅島へ遠島(島流し)となった歴史に遡ります。その後三宅小学校の5年生は、毎年高遠北小学校を訪れています。海の子どもたちと山の子どもたちの交流は今でも続き、とりわけ三宅の子どもたちは、雪の残るアルプスの山々、広大な田んぼの風景、渓流の流れには瞠目します。火山の島には田んぼも川もありませんから、川遊びやホタル、マス掴みなどは楽しい記憶として残っているようです。
令和4年(2022年)7月21日、50年にわたる交流の歴史を踏まえて、三宅村と伊那市は改めて親善交流の調印を行いました。50年以上の歴史を持つ交流は全国的にも珍しいと思います。これからも海と山、絵島と生島、三宅と伊那の繋がりをしっかりと温めそして深めていきたいと願っています。
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