たき火通信 其の百三十五
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更新日:2021年10月27日
高遠焼の始まりは土管
ポツネンと山道に残る土管
高遠ダムの湖畔に高遠焼の窯、「白山登窯」があります。昭和30年代後半に一度は廃窯し途絶えた高遠焼を、昭和50年(1975年)に唐木米之助(故人)が復活させ、現在は2代目が登り窯を守り、淡い桜色や深い瑠璃色の釉薬を使い、素朴な味わいの高遠焼を作陶しています。
高遠焼は、「土管」から始まっています。土管は高遠城のなかに造られた瓢箪型の池に引水するための導管として作られました。文化11年(1814年)の事のようです。池には落差5m程の滝や浮島、その端には4つの部屋を持つ茶室があったと「御城内引水略絵図」に残っています。池の場所は現在の高遠城址公園内の南曲輪で、靖国招魂碑の少し北西に行ったあたりにありました。時の城主内藤頼以が、月蔵山の樋ヶ沢や落花沢・矢沢から城内に水を引くための導水用として、土管を製造するために美濃の陶工を呼び寄せたと言われます。土管の長さは二尺七寸四分や一尺八寸三分のもので、外径は五~六寸の形状が多かったようです。樋ヶ沢から高遠城までの距離は14丁38間(約1,600m)ですから、いったいどれくらいの数の土管を窯で焼いたのでしょうか?
その後高遠焼は、生活の調度品として広がっていきました。火鉢・擂鉢・植木鉢・火消壺・瓦・徳利・茶碗・皿・土瓶など日用に供するものの他に、水差し・茶器・花器と芸術性を帯びたものも作られていました。
そして明治・大正・昭和の時代に日本経済を支えた「絹・シルク」も、一大産業として隆盛を極めた岡谷片倉組の「糸とり」の現場にも、高遠焼の「半月糸取り鍋」が導入されていたと言われます。そのほかにも高遠にあった丸千組で作られたタイルは、昭和5年建設の伊那市創造館(旧・上伊那図書館)の外壁タイルや諏訪湖畔の片倉会館正面玄関のタイルなど、今でも現存している品質の高いものとして知られています。
高遠焼は土管に始まり、200年以上にわたり一般的な家庭雑器として庶民の生活とともに時を刻んできました。今でも峰山寺から落花沢に続く引水用の山道では、その土管を見ることができます。
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