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たき火通信 其の百五十

ページID:883750714

更新日:2023年2月21日

寒晒蕎麦かんざらしそばの始まりも高遠藩


極寒の粟沢での作業

「信州そば発祥の地 伊那」は、広く全国に知れ渡りました。あらましの来歴らいれきは、10年ほど前の伊那市議会一般質問に及びます。今では議員を辞して、高遠そばの普及と品質の向上に尽力し、栽培方法や高遠そばの歴史などを研究している蕎麦学の泰斗たいとあい氏とのやり取りから始まりました。「信州そば発祥の地は伊那であると、全国発信しては如何いかがか?」、「保科正之公ほしなまさゆきこうが無類のそば好きで、最上藩・会津藩への転封てんぽうの際にも、そば職人を伴って行った」など、一再いっさいならず繰り返し一般質問で取り上げられました。私も調べてみると、奈良時代の「修験道の祖・えんの小角おづぬが世話になった伊那市うちかやの村人に、一握りのそばの種を置いていった」とか、「織田の軍勢に高遠城が落とされたてんしょう10年(1582年)に百姓たちがそばを献上した」などの話を聞くに至りました。全国のそば研究者を尋ね歩き、やはり「信州そば発祥の地は伊那」であると確証を得たわけです。

また、高遠藩は江戸時代、「暑中信州寒晒しょちゅうしんしゅうかんざらし蕎麦そば」を将軍家に贈っていました。享保きょうほう7年(1722年)徳川家八代将軍吉宗よしむねの時代です。ちょうど今から300年ほど前のことです。「寒晒蕎麦」はせつが舞う小寒しょうかんの日にげんそばを渓流に漬け、立春りっしゅんに引き上げて寒風にさらす製法です。極寒で晴天率が高く、乾燥した気候だからこそできた蕎麦と言えます。これによりそばの風味や食感が増し夏でも美味しく食べることができたのです。

将軍家に「蕎麦」を献上していた藩は、高遠藩・羽州うしゅう天童藩てんどうはん上州じょうしゅう舘林藩たてばやしはん上州じょうしゅう小幡藩おばたはんなど9藩がありました。なかでも「寒晒蕎麦」として献上していたのは、「暑中信州寒晒蕎麦」の高遠藩と、「暑中寒瀑しょちゅうかんばく蕎麦そば」の諏訪高島藩の2藩のみでした。高遠藩が将軍家に献上を始めたのが享保7年(1722年)で、高島藩が寛政かんせい元年(1789年)ですから、高遠が67年早いわけです。やはり「寒晒蕎麦」は高遠藩が発祥の地と言えるわけです。

かん」と言われる文献には、高遠内藤藩の将軍家への献上品は「暑中信州寒晒蕎麦」の他に「独活うど」(春先のヤマウド)、「松茸」、「岩茸」があります。「信州そば発祥の地 伊那」、「寒晒蕎麦」の始まりも高遠。夏になったらぜひ「暑中信州寒晒蕎麦」をご賞味あれ!

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伊那市役所 総務部 秘書広報課 広報広聴係

電話:0265-78-4111(内線2131 2132)

ファクス:0265-74-1250

メールアドレス:his@inacity.jp

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