このページの先頭です

サイトメニューここまで
  1. トップページ
  2. 市長室へようこそ
  3. 市長コラム
  4. たき火通信 其の百六十六
本文ここから

たき火通信 其の百六十六

ページID:890455062

更新日:2024年6月25日

東駒ヶ岳・開山200年


ピラミダルな山容は夏でも白い

伊那谷の人々は、古来より南アルプスの駒ヶ岳を「東駒ヶ岳」と呼び、中央アルプスの駒ヶ岳は「西駒ヶ岳」と呼びならわしてきました。全国的に使用されている「甲斐駒ヶ岳」の名前は、明治時代に陸軍陸地測量部が命名しました。以来、「甲斐駒ヶ岳」が一般的になりましたが、その昔は「白崩山しろくずれやま」とか「白崩嶽しろくずれだけ」と呼ばれた時代もありました。

文化13年(1816年)に、信州諏訪郡上古かみふっむら(現茅野市上古田)の行者、小尾おび権三郎ごんざぶろうが、甲斐かい横手村よこてむらからささたいらを経て、黒戸くろと尾根おね登攀とうはんして頂上に立っています。甲斐駒ヶ岳を最初に開山したのが、20才ほどの若き修験者の小尾権三郎だったのです。

現在でも黒戸尾根は難ルートで、梯子はしごを上り、鎖につかまり、岩をじ登り、ときに両側がスッパリと切れ落ちた「刃渡はわたり」を通過する手強い登りです。200年ほど前にルートを探しながら、何年もかけて道を切り開いた修験者の権三郎は、並々ならぬ決心と覚悟で臨んだものと思われます。

寛政かんせい文化ぶんか文政ぶんせい時代は、御嶽山おんたけさん、赤岳(八ヶ岳)、木曽駒ヶ岳などの開山が盛んだったようです。御嶽山や木曽駒ヶ岳、甲斐駒ヶ岳などの山岳信仰をおこし、開山した山への登拝とうはいをするための「こう」が結成されていました。甲斐駒ヶ岳への信仰の道、黒戸尾根には、観音かんのん菩薩ぼさつなどの石仏が奉納され、今でも登山道脇には往時おうじが偲ばれます。

ところが、何故かこの駒ヶ岳参詣さんけいの道は、お上から使用禁止となりました。文政7年(1824年)のことです。「登拝の道に勧請かんじょうされた石仏の刻銘こくめいがのちのち土地争いの原因となる」とか、「かま無川なしがわ氾濫はんらんの原因は無法者が駒ヶ岳に登るからだ」とか諸説うかがわれますが、真意はよくわかりません。

25才で夭逝ようせいした小尾権三郎の意思を継いだ諏訪の人たちが、文政7年(1824年)、伊那側から白崩嶽(駒ヶ岳)に登れるようにと、黒河内村くろごうちむら(現伊那市長谷黒河内)のやま奉行ぶぎょうを介してルートを開きました。長谷戸台からあか河原がわらを遡り、七丈しちじょうたき尾根おね六合目ろくごうめ石室いしむろを経て駒ヶ岳に至るルートです。
今年は伊那側からの登拝ルートが開かれてちょうど200年となります。

お問い合わせ

伊那市役所 総務部 秘書広報課 広報広聴係

電話:0265-78-4111(内線2131 2132)

ファクス:0265-74-1250

メールアドレス:his@inacity.jp

本文ここまで

サブナビゲーションここから

市長コラム

お気に入り

編集

情報が見つからないときは

サブナビゲーションここまで

以下フッターです。