たき火通信 其の百二十八
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更新日:2021年3月24日
高遠へ電車を走らせる夢
鉾持桟道拡幅工事・大正10年頃
JR飯田線の前身は「伊那電気鉄道」、長野県初の私鉄として創業されました。辰野から始まった鉄道敷設工事は、明治42年(1909年)には伊那松島まで延び、明治45年(1912年)1月には伊那北駅が開業、さらに同年5月には伊那町駅(現:伊那市駅)まで延伸しました。ちょうど同じ頃、塩尻から木曽の奈良井間を蒸気機関車が走ったのを契機に、伊那谷の遅れを憂慮した有力者たちは、民間の力で資金を集め伊那電気鉄道を走らせたのです。
話はさらに、伊那電気鉄道伊那北駅から、高遠まで電車を走らせようとした人々がいました。大正10年(1921年)の頃です。運営会社は「高遠電気軌道株式会社」といい、社長には高遠町の黒河内一太郎が就きました。ルートは伊那北駅から天竜川東の古町~美篶大島~末広~笠原を通り、鉾持の除け(桟道)を開削して高遠町に至るものでした。鉾寺の除けは電車が通れる幅に広げ、美篶上川手から下県・中県の坂は、電車が上ることができる勾配に造られたと言われています。
電車を動かすには電気が必要です。「高遠電灯株式会社」の設立は大正2年(1913年)、初代社長には豊島恕平が就いて、高遠地域に電燈を敷くとともに、高遠電気軌道の電力確保の計画を進めました。発電所は今でも現役の、三峰川支流の黒川に造られた「戸台発電所」です。
先人、先達は、私たちの想像を超える熱量を持ち、崇高な発想から私財を投じ、地域の発展に情熱を注いできました。「高遠電灯株式会社」と「高遠電気軌道株式会社」というふたつの会社。結果、町民はランプから電燈の生活にかわりましたが、件の高遠電気軌道は自動車の登場などの諸事情から、株式会社も解散となって壮大な夢は潰えたのでした。
JRバス関東の高遠バス停は、今でも「高遠駅」と言います。先人の成しえなかった思いが、今でも歴史を忘れないよう、また反芻するかのようにあえて「駅」と呼ばれているのです。
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