たき火通信 其の百四十五
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更新日:2022年9月21日
布引丸事件
「背水」と刻まれている弥六の墓(進徳の森にて)
布引丸事件とは、フリー百科事典の「Wikipedia」によれば、「1899年(明治32年)7月21日に、フィリピン独立革命を支援するための武器・弾薬を搭載した日本船籍の「布引丸」が、東シナ海寧波沖で暴風雨によって沈没した事件」とあります。このフィリピン独立革命を支援した日本人の一人が中村弥六です。弥六は安政元年(1854年)12月の高遠生まれ、高遠藩の藩校進徳館で学んだのち東京開成学校(のちの東京大学)でドイツ語を学び、日本の林学博士の第一号として、また衆議院議員として大隈重信内閣では司法次官も務めています。
布引丸事件の顛末は、フィリピン独立革命に日本が加担したことが国際問題に発展したこと、沈没した武器の残りを弥六が売り払い、代金を着服したと噂され、悪辣の非難を浴びたことなどがあります。後年に弥六自身が記した「布引丸事件秘録」を読むと、当時の列強支配の東アジアと東洋民族の独立の機運に、大度な中村弥六は熱い思いでつき動いたことが窺われます。
東アジア諸国は長い間、列強の植民地でした。ベトナム・ラオス・カンボジアはフランスの、インド・ミャンマー・マレーシア・シンガポールなどはイギリスの、インドネシアはオランダ植民地と宗主国の支配下にありました。フィリピンはアメリカの植民地から独立するため、独立革命軍首領アギナルドが日本に支援を求め、中村弥六・宮崎滔天・犬養毅などが独立革命のために奔走支援しました。列強支配からの独立、アジア民族の自決のための武器・弾薬・軍人などの支援でしたが失敗に終わり、弥六は一人で汚名を被ることになります。
「事件が国際問題に発展しないよう、また発覚した場合にも政府に罪が及ばないよう自ら犠牲を被る」と秘録のなかで述べています。着服・私消の誹りを浴びても肯んじない姿に、弥六の潔白を詳らかにしたいと願います。弥六の方正な人間性は、アジア民族、人民のために清廉の人であったと、百年のちの今、改めて布引丸事件を検証しなければなりません。遺書に「憤慨しつつも涙を飲んで耐える」、「百年ののち必ず我をしるものあらん」とあります。弥六の心中を慮るところです。
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